民主主義の基本理念である、自由、平等、博愛であるが、そもそも、自由と平等って、矛盾する。
それが同居する民主主義自体、虚構の産物では無かろうか?
どうも、最近、従来型発声に見られる、擬似科学的飛躍に無頓着な短絡的思考でありながら、多くの人々が疑わない事と、ユダヤ人長老(アシュケナージユダヤ人?)の一人が日本人に懺悔している内容の文書にもある、平和憲法と称する「理想」の中の、非現実的な矛盾とがリンクして仕方が無いのである。
これも、その懺悔の中にあったが、戦後の教育の一つにある、○×式解答!まさに思考そのものが、○×式と化しているのではと思うのである。
あるいは、もう既にある説、論の中からのみ解答を得ようとし、自らの思考、思案、による、自分の言葉で考えようとしない傾向にあるのである。
その現象が、発声の世界でも、顕著に成っている始末であろう。
それこそ、民主主義発声と名付けてもおかしく無いのでは?と感じる今日この頃である。(笑)
ちなみに私は、右でも左でも無いが、反新世界なんとか・・である。(笑)
自由と平等考
クラウスの発声
マスケラにポジショニングする発声で、かなり鼻に掛かった声だと思います。
全体的に、明るく、微笑みのポジションで歌う為、クラウスには大丈夫でも、重いタイプのテナーが、この真似すると、破綻すると思われます。
クラウスの発声練習音源
現代vs古典
リンクの動画は、その比較をしています。
現代の歌唱が、如何にルーズな声かがお分かりかと思います。
比較動画へリンク
歴史認識
歴史とは、まさに、ヒストリーならぬ、ヒズ(権力者にとって都合良い)・ストーリーでは無かろうか。
多分に現代風スタイルで歌っていても、「これは、ベルカントです」と言ってしまえば、皆、それを信じてついて行くのである。
さて、どこの、いつの、ベルカントなのやら?
そこから怪しいのである。
黄金期→第二期黄金期→現代風スタイル
まあ、この、中間型なるものも在ると思うが、その変化は、何がどうなったのか?進化か?劣化か?
これらが明かされない限り、常に「本物は誰だ?」「何が真実か?」と言う疑いが常に付きまとうのである。
ガセネタだらけと言っても過言では無い。
昨日アップしてリンクしたモダンスタイルVSオールドスクールで比較して頂くとお分かりかと思うが、現代風スタイルは、明らかにルーズで、安易な方向に成っている。
オールドスクールとは、第二期黄金期である。
声の構造を、アッポッジョのベクトルで認識出来るようになると、物真似が出来るように成ってくる。
さて、あなたは、どんなベクトルで歌っているのか、自分で把握していますか?
進歩の過程
様々な常識や、知識を前提として物事を捉えていると、真実が見えなくなる事が多いかと思います。
私が、発声に関して行って来た事は、一切の常識を棄て、模範となる黄金期の音源を頼りにゼロから考えると言う事でした。
その結果、心と身体は繋がっていて、フォームは心に影響を及ぼし、心はフォームに現れると言う事がわかりました。
身体の縦軸と、横軸、あるいは前後の動き、変化には、それぞれ、情緒的な意味があります。
従って、心の傾向は、その人のフォームに顕れると言えるでしょう。
逆に、フォームを矯正する事で、心にも影響を及ぼすでしょう。
とにかく、言語でのみ物事を把握しようとしていると、必ず盲点が生まれる事は再三述べて来ました。
声そのものに、あるいは、その間に、言語を超える情報空間があり、それを読み取れれば、フィードバック的に、その人に、ある程度同化出来ます。
物まね芸などは、まさにその極みでしょう。
それは、発声教師に必要な資質でもあります。
最近、特に面白いのは、突き詰めれば、発声一つ取っても、声の調和から、個々のマインドの調和や社会的関連性が見出され、宇宙にも繋がってると感じる事です。
後、個々の部分的、断片的現象を拡大して追っても、何も見えて来ない事です。
全身は、それぞれ、関連性で一つに繋がっている訳ですから、それを俯瞰しその関連性を理解、体感する事が大切でしょう。
言語による断片的思考から、関連性の理解に発展して行ければ良いのですが、それは、私の二の舞を踏む事になり、それこそ、30年掛かります。(笑)
とにかく、最初からすぐに上手くなって・・などと飛躍せず、また、声が良くなると言う事は、現象に過ぎない事を理解し、その裏側にある何が変化したのか?と言う理解を楽しんで行こうではありませんか!
例え、黄金期のような声が出せるように成ったところで、それは、超常現象でも何でもなく、慣れれば当たり前の事で、面白いものでも無く、どちらかと言うと、苦行です。
それも、日によって異なる身体の状態から、バランス最適化を探り出す、あるいは構築する時間もかなり必要です。
では、何が面白いのかと申しますと、少しずつでも、進歩する過程が面白いのです。
そこを楽しまずして、他に楽しみなどありません。
歌えたからと言っても、金持ちに成れる訳でも無く、異性から特別にモテたりもしません。(笑)
ベクトルの組み合わせ
キアーロ・スクーロ(声の明暗法)の本質は、情緒的に明るい方向に働く、身体のベクトルと、深く暗いシリアスな方向に働くベクトルの組み合わせだと捉えています。
それは、末端や部分でのベクトルに分化する事も可能で、例えば口を横に開ける事は、明るい方向性であり、それに対応してバランスを取るには、他のパーツのどこかで暗く深いベクトルを構築する必要が出て来ます。
口は、横に!嫌、縦に!などという論議は、余り意味が無く、それに対してどこでバランスを取るか?が問題となるのです。
その組み合わせたるや、結構沢山あります。
ブレスタイプも沢山あると言う事は、その違いに適応させる為に、他のパーツでのベクトルもお互いに異なると言う事にもなるのです。
そのバランス化の結果、個々の発声の特色の相違が発生します。
また、ある箇所のベクトルの方向性を、絶対化すれば、他の箇所の組み合わせは、それだけ限定されて行きます。
その絶対化したパーツの偏りが過ぎると、他のパーツでのバランス化も、限界があり、不具合が起こります。
このパターンは、多く見受けられます。
その偏りを生じさせる原因ともなる、パーツにおける形の絶対化の論拠を問い質してみて下さい。
「誰それが言っていたから!」などと、極めていい加減な場合が殆どなのです。
正当化には欠かせない、いい加減なものの「絶対化」という信仰なのです。
バランス化には、幾つものパターンがあるという話でした。
アッポッジョの調整
アッポッジョに関しては、「横隔膜をプッシュダウンさせる」と一般的に言われているが、ジェローム・ハインズは、この事に関して、寄り綿密に具体的に述べている。
余り詳しくは書けないが、「慎重に行う必要がある」と述べている。
これは、他のパーツとの関連性の一部として、その度合いの最適化を見計らう必要があると言う事であり、何がなんでも!と、思い切りやれば良いと言うものでは無いと言う事である。
中には、プッシュダウンを完全否定する流派もあり、混乱を招いているが、その流派は、その分のリスクを抱える事にもなるのであろう。
いずれにしても、発声の、メカニズムの全体像を把握する事で、その調整の最適化が可能になるのである。
力強く、デリケートな世界と言えるであろう。
そもそも、発声メカニズムのマクロ視点が無く、断片化された概念のみが氾濫している状況である事には違いない。
ラッキーデタラメ放送局
この動画、チャラい雰囲気で、結構重い内容を分かり易く語ってます。
ラッキーデタラメ放送局
プロは具体的
巷では、声の鳴りやら、喉の開き、やら、息の流れ、やら、もっと頭声で!やらの批評、指導が行われていますが、例えば、頭声と言う概念の履き違えも相まって、軽く浮かせて頭の天辺が響くように、目をつり上げた表情で出させる事が多いです。
後は、訳の分からぬ頭声と称しミックスボイス出したり・・。
充分な頭声とは、しっかりとしたアッポッジョの前提で成り立つものであり、あの空虚な、風が吹けば飛ぶようなものではありません。
鳴りがどうのこうの・・などの評価も、わかっちゃいない証拠!
鳴ろうが鳴るまいが、良いポジショニングが必須です。
鳴っても、ポジショニングダメだと、どんどん偏った方向に増殖して行きます。
プロの指導とは、訳の分からない事は、言いません!
何が不足しているのか?従って、何に偏っているのか?をすぐに見抜き、具体的修正案を提示出来ます。
そうそう!わかっちゃいない輩に限って、「力んじゃダメだよ!力抜いて!」なんて、肥溜め程の(笑)価値も無い事を、さも発声の秘密を知っているが如くに宣うのです。(笑)
居る居る!どこにでも居る!
結局、わかっちゃいないと言う事を、如何に覆い隠そうか!とするならまだしも、分かっているように思わせようとする偽装が、日常的に行われているのです。
そんな「砂の器」とっとと崩して、しっかりとした本物の器を創りましょうよ!
何だか、社会全体も、砂の器っぽく感じる今日この頃です。
共同幻想
全ては「在る」ように見えて、実は「存在しない」と言う、現代物理の結論とは、次元が異なる話であるが、国家とはそもそも何であるのか?
さも、在るように見えて、実は、その実体など無く、人間が作り出した、観念的な取り決めと言う枠の事であり、岸田秀氏は、「共同幻想」と言い切っている。
良く、ネット上で、「日本人が、世界を救う」などと言っているが、日本人とは?と言う問いに、明確に答える事など出来ないのでは?と思うのである。
しかも、日本の社会教育は、思い遣りやら、相手の気持ちを察し、相手の気持ち、目上の人の気持ちを重視する事を第一としているようである。勿論、これは、美徳の一つではあろうが、逆に、周りに左右されず、自分の頭で、ものを、論理的に考える力を奪われ、騙されやすい体質に成っているようである。
支配する側にとって、最も優秀な被支配者であろうか?
オペラ歌手の発声の問題も、その事と無関係では無い。
皆さん、村八分を恐れ、その死活問題にビクビクしながら、何とか生き抜こうとしているのである。
声楽の世界で言うと、優れた発声などより、目の前の事なかれ主義が優先するのである。
そんな国が、何故、どうして、世界を救う事が出来ようか?
発声の道理を知り、それに従うよりも、お偉い先生の指導内容が優先するのである。
長いものに巻かれるのでは無く、そもそも、オペラの世界、長いものなども、最早、形骸化している現在、自分で価値を作り出し、積極的に自分から発信して行ける人材が、生き残って行けるのではと考えている。
あるいは、声楽と言うものを、武道のような「道」として嗜むものと捉えて割り切る事も良いかと思う。
いずれにしても、現在は、インターネットにおける個人の時代であると言えよう!
口先の声とは?
要するに、声にしようと、急ぐ事により、身体のアッポッジョを経ずに出した声の事であろう。
気持ちをすぐに声にしようとする事でもあると思う。
パッサッジョから、楽してこれをやってしまうから、平べったく、上擦った声になるのである。
アッポッジョを形成する、僅かな待ち時間が必要であり、文字通り、寄りかかる、委ねる事で、自意識過剰を防ぐのである。
形を知る、体感する、理解すると言う、学習による、ある種の体系的インテリジェンスが必要であり、これが無いから、気持ちに流されて、見栄を張り、急ぎ、慌てて声にしてしまうのである。
物事の優先順位を無視し、価値の並列化を平気でやらかすのが、諸悪の根源でもあろう。
「声、発声は、声楽のほんの一部であり、そればかりが重要では無い!」とする考え方こそが、それであろう。
何故なら、その結果が、現在の状況であるのだから。
一見、尤もらしい、民主的な?理屈に、騙されない為にも、日々、研鑽を積む必要がある。
理屈の本質を見極める力も、研鑽を積む事で、養われるのである。
誤魔化すための理屈、見栄の為の理屈、騙す為の理屈、猿芝居、こんなのだらけな世の中で、疑う事をせねば、騙され、取られっぱなしである。
その挙げ句、出る声も、出なくなる・・と言う、有り難いオマケ付きである。
笑い事では済まされないのである。
「声だけに頼るな!」と言う裏側の本質
要するに、人前で披露するまでの期間が短く、表面的な体裁を、早急に整えんとする為の、尤もらしい理屈に過ぎない場合が殆どである。
そこには、何年も掛けて基礎を作り上げようとする哲学など無い!
特に合唱団などで、発声に重点を置くと、必ずや、未熟な状態が露呈する訳であり、実は、その未熟な状態こそが、「声だけに頼った」や、「発声の事に拘った」と思わせる本質である。
日本には、その未熟な期間を容認するような長期的なプランを建てられる指導者が少ないのだろう。
その、偉い先生方が、付け焼き刃的なプランを唱えているうちに、それが、ドグマと成ってしまったように思う。
基礎が何なのか?とことんボカされて来たおかげさまで(笑)、私の研究のやりがいがあると言う、皮肉な現状なのである。
私に、発見する喜びを提供してくれた、従来型、体裁第一主義に、感謝せねば成らないだろう。(笑)
無知の知
声楽発声の最初の数年は、自分が解っていない事を知る為の期間であり、そこを経て、初めて真の理解に及ぶものである。
従って、下手に器用な人間が、その期間に「解った」と早とちりする事が、その手の人間の進歩の芽を摘む結果となる事が多いのである。
解ったと言う資格を得るには、様々な偏による不具合を体験し、克服する必要があり、それを経て、初めて、全体のメカニズムの繋がりが理解出来て来るものである。
無知の知!
これは、下手に頭の回転が良い人間の盲点とも成ろう事柄である。
難しさの理解
声楽発声を理解したと言う事が言える状況とは、先に述べたように、出来た人間の言える事であり、また、その「難しさを理解した」と言うのも、それを克服した者が言う台詞である。
出来てもいない者は、何も解らないのと同じなのである。
中には、恐らく、何をやっても、資質に問題があり、出来ない事を、近代のメソッドの問題にすり替えて、初期黄金期とやらのメソッドに価値を見出す人達がいるようであるが、結局は、出来ない事の正当化に過ぎず、アッポッジョに関しても否定的であろう。
その初期黄金期とやらの方法論でさえ、正確に伝わっていると言う保証など、どこにも無いのである。
もし、そのメソッドたるものが現存するなら、そのベルカントマスターの発声を聴いてみたいものである。
さて、話は変わるが、ジョセフ・ショア氏が、最新の動画の中で述べている中の、マリオ・デル・モナコについて、興味深い言及があった。
デル・モナコの良き時代は、1951年までであり、パッサッジョのキューゾが、しっかしとしていたが、それ以降は、パッサッジョが開き、その形が崩れていると言う点に関しての言及だ。
まさに、その通りである。
ただ、形がしっかりとしていた頃は、身体がしんどかったのだろうと思われるのである。
加齢に寄る、体力低下に伴い、完全なる形を崩さず歌い続ける事の難しさ、リスクも考慮すれば、その変化も、許せてしまうレベルの演奏でもある。
最近、アッポッジョの全容が、体感的に理解して来た(某所のみに音源公開)立場で言うと、やはり、かなり肉体的に大変である。
「豪華衣装の下は肉体労働!」などと言っている書物があったが、パッサッジョ開けてる癖に、本当に解ってんの?と問い正したくなるのが本音である。
現在、私の理解度向上に伴い、レッスン生が、次々にステップアップしているのが、何とも嬉しい状況である。
そして、その結果、改善された音声の録音をその場で聴いた生徒さんの、驚いた表情を見るのも、また私の喜びでもある。
やはり、先生が進化しないで、生徒さんの進化も無いと痛感している。
何十年も同じ事を繰り返しているようでは、底が知れると言うものである。
私の生徒さん!うなじから、背筋群の疲労、凝りに要注意!
さもなくば、たちまちのど声に没落するリスクを抱えている事を理解して頂きたい。
何が変わったか?
私の最近の研究の結果、具体的に何が変化したかと申しますと、やはり、パッサッジョから高音域への道筋です。
以前までのメソッドも、悪いとは言いませんが、やはり、若干、その道筋の甘さがあり、特に高音域のクオリティに、その結果が顕れます。
しかし、以前までの道筋でも、それが体現出来るだけの力があるから、今回のに移行出来るのだと思います。
なんせ、背筋群への負荷が、倍増する位の体感なのですから。
それもこれも、順序の内と解釈すれば、気は楽に成りますね。
まだ、最新のレッスン受けていない人達!
是非、改めて受けて下さい。
こう言っては悪いですが、その最新の道筋は、自分で行く事は不可能です。
だから、お願い!時計を止めて・・♪
いや、レッスン受けて!
虚仮威しの声
テノールが、余りこれをやると、たちまち不具合ん起こしてしまうけど、バリトンに多いのが、パッサッジョから声を、質より量的に太くして、さも「情熱を注いでます!と言う所作で歌うパターンが殆どだと思われます。
いわゆる虚仮威し!
声の密度や、美しさより、気迫重視!やってます感満載の声!
もう、飽き飽きしています。(笑)
またあれか!と言う風に感じられている方も結構いらっしゃるのではと思います。
全世界的な傾向でもあり、オペラが面白く無くなった原因のひとつとも観てます。
あんな未熟な声で、猿芝居だったら、リアルな演劇や、映画観た方が良いわ!と思ってしまうのは、私だけでしょうか?
皆さん、パッサッジョから大口開けて頑張ってますが、あそこに行ってしまったら、後はその方向に増殖し、バランスが崩れる一方なんですわ!
だから、私の年齢にまだまだ及ばぬ段階でも、かなり劣化し不安定になるのです。
せめて、修正案としてだけでも、キューゾを含めたアッポッジョのバランス化の意味を知って頂きたく思います。
大きく見せる為の発声に、いい加減うんざりしている今日この頃です。
同じ分量で、体積を増やせば、中身は薄く成るのが世の常と言う事でしょう。
人を信仰する事
信仰とは、思考停止する事でもあるからです。
私が、左でも右でも無いのも、双方に「信仰」による思考停止の事柄が垣間見えるからです。
声の道理を長年研究して来て、私が救われたのは、この、不信心な性格だった事と言えます。
未熟な段階で、思考停止してしまえば、そこで終わりなのです。
逆に、本当に信じるに値する「道理」そのものの探求をして来たのです。
予め、信仰しているものがあると、真の道理が見えなくなると言う事でしょう。
信仰は、最終段階に取っておきませんか?(笑)
浅い情報に翻弄される日本人
現在は、戦前の機密文書開示や、内部告発などにより、真実の情報が、どんどん拡散しています。
戦後の自虐史観を植え付けようとした左翼教育も、仕向けられたらものである事が近年明らかになって来たようです。
明治維新の真実も、銭の流れを観てみると、美談めいた歴史観も、嘘っぱちだった事!
さあ、これらの開示された、都合の悪い歴史の真実を受け入れられるでしょうか?
リベラルなどのイデオロギーも、如何に、浅はかな情報の上に成り立ったものかが解るでしょう。
日本人は、カモにされ、騙されてきたと言う事でしょう。
発声でもそうです!
如何に浅い情報の上に、砂の器の如く成り立っていたものか!
そこに悪意が在ろうが無かろうが、政府を非難しながらも、都合によっては「偉い先生だから」とか、「一流大学だから」などという、権威を持ち出して、すぐに信じ込む。
その考え方そのものを、一旦解体する必要もあると思います。
そして、今までの価値観と異なり、自分に都合が悪くても、真実を真実と認める勇気が必要だと思います。
真実の情報を知らずして、より良い社会など、構築出来る筈も無いのです。
これらの事は、私が発声探究して来て、得た結果ともリンクしています。
如何にいい加減な情報を信じて来たのか?
そこから生ずる疑問を、放置して来たのか?
さて、その真実の情報に対して、どう反応するか?それが問題でしょう。
ちなみに、今のマスコミなど、何も伝えていないようです。
どうやら、様々な暴露は、2000年以降成されているようで、古い情報しか知らない人々が殆どなのでしょう。
古いイデオロギーは、最早腐り果てているように思えます。
発声と同じく、真の社会の構造を把握する事をしなければ、その先は無いと思います。
浅はかな空論に騙される運命と成るわけです。
それには、まず、脱洗脳でしょう。
それが最も厄介でしょうが。
重い声の苦難
重い声の人が、軽い声の先生に師事して、歌えなくなるパターンは意外と多いと思われます。
ある思慮深い学生さんが、軽い声の先生と、重い声の先生の双方に、「パッサッジョはありますか?」と質問をした結果、
軽い声の先生は、「パッサッジョは無い!」と答え、重い声の先生は、「パッサッジョだらけだ!」と答える傾向にあると言っていた。
実際は、軽い声の人でも、パッサッジョは有り、本人が気付かないだけなのであるが・・・。
一方、私のレッスンでは、初心者に対しては、特に声を整えると言うより、声を鍛え上げると言う観点が多く、最初から整っている訳では無いのである。
その段階において、一般的な教えは、やはり、その場を取り繕ったように、整えようとして、結果的に、どんどん不具合が顕著に成るようである。
因果の捉え方も、メチャクチャである。
要するに、負荷の否定が主流であり、そのような先生の音源を拝聴すると、まず100%!開き声、浮き声、と言う有り様である。(どこの流派なのか?)
そのような教師は、最近では少なく成りつつあるようだが、まだまだ国内では主流である。
学生さんの方が、良く知っているでしょうが・・。(笑)
機能的な不具合
声帯は、表面上何とも無くても、機能全体のバランスの問題による不具合で声が不安定に成ったり、出なくなる事は、単純に結節や、ポリープによる不具合に比べると、厄介である。
目に見える結節や、炎症の方を、寄り重大な問題とする傾向にあるが、開き声による機能的不具合の方が、寄り質が悪い事に気付く人は少ないのか?
発声の問題で、声帯は何ともないのに、声出ないのは、根本から修正せねば問題解決しないのである。
機能は正常で、結節が原因であれば、それを取り除き、無理をしなければ問題解決する。問題は単純なのである。
カルーソーの喉を観たら、炎症のある、普通以下の状態だった事の意味を考えれば、事の本質が解るだろう。
それでも素晴らしく歌えていた訳である。