Quantcast
Channel: Old school オペラ発声研究家 宮前区在住 永田孝志の日々
Viewing all 7755 articles
Browse latest View live

日本でスピントやドラマティコテナーが育たない訳

$
0
0

生徒さんの中には、スピントや、ドラマティコと思われるテナーも居ます。

レッスンを数年やって、やっとこさ、それらしき道筋が見えて来た現段階で、述べた事は、「日本で重いテナーが育たない理由が解りました!」と言うもの。

どれだけ、アッポッジョを知らないか?と言う話に成ってくる訳だが、そこら辺の声楽指導に見受けられる、「もっと頬骨上げて~!息を回して~!」なんて、お遊戯みたいな事やっていたら、それは到達出来るものも出来なくなってしまうと言う結論である。

私も、やっと、パッサッジョで、埋まった、ピントが合った声を出す術を見つけたが、そこら辺で言われている常識では、到底到達不可能と言う確証を得る体感的理解を得たのである。

うなじから、肩甲骨周辺の筋肉にかけての機能的な重要度を、従来型のお遊戯発声は、完全に無視していたのである。

従来型発声を「お遊戯発声」と揶揄する事も、体感的理解から自然に湧き出たコピーである。

悪気はない。(笑)


自分を律する発声

$
0
0
私の到達した発声は、一言で言えば、声という自分を律する発声です。

ほったからしにしていたら、分散、拡散してしまう声を、特にパッサッジョ域から、ある形の中に収めるように、強制力を持って従わせると言う事です。

平和ぼけした現代では、かなりの違和感を覚える発声なのであろう。

現代の国内の発声は、それに比べ、何というか、甘いと言うか、放任と言うか、自分を律する規範的存在が居ないと言おうか、「そんな事したら、伸び伸びと歌えないじゃないの?」と言われそう・・と言おうか?(笑)

伸び伸びと歌う為の厳しい掟なんですわ!

伸び伸びと、無法者の声と言う自分を牢獄から解放してしまうと、パッサッジョ域から、安易な広い道に行き、滅びに至るのであった!(笑)

まるで、聖書の一節のようでありますが、最近、一見、自由に見えて、実は不自由に至る道である・・なんて事ありますよね!

これをやってはいけないよ!と言う「これ」を知る事も、発声の大切な勉強の一つでしょう。

厳しく律するポイントがあるからこその、輝かしい高音域がある!と言う話でした。

出口のアッポッジョ

$
0
0
アッポッジョと言うと、どうしても、横隔膜のプッシュダウンと言う一面に気を取られてしまうが、出口のアッポッジョと言う概念が、従来型発声には皆無である事に気付いた。

出口付近の寄りかかりがあると言う事は、出口付近が適度に閉じている必要がある。

それだから、強い声が発声出来るわけであるのだが、そこは感知せぬように、触らぬように、脱力させるメソッドかそが従来型発声である!

そこを狭めるにしても、コツがあり、一点で止めてしまうと、のど声と化してしまうのだが、全体を満遍なく閉じる事で、適度な息の流れが確保出来るのである。

追記すると、その感覚で母音が発声出来て、初めて欧米人の発音がどの様に成っているのかが理解出来るのであろう。

とにかく、出来てみなければ、何も分かりはしないのである。

実技としても、論理にしても、盲点だらけの従来型発声は、段々と歪みを生み出すような増殖をしていく代物である事は、明らかである。


薄っぺらい声

$
0
0

日本人って、「どこまで高い音が出るか」と言う、安易な価値観に取り付かれていて、伝説的な大歌手でさえ、困難なハイトーンを薄っぺらい声で簡単に出して喜んでいる帰来があると思う。

大歌手でも困難なハイトーンを、日本人が軽々出しているが、それでグレートシンガーと評される事は無い。

要するに、薄めれば、とりあえず出るのであるが、アッポッジョに基づいたもので無ければそのうちパッサッジョ域が不安定になるのである。
そして、「あれ?前に出ていたのに・・?最近おかしい!」と言う事になるのである。

どこまで出るか?ではなく、どう出るか?が問題なのである。

エンリーコ・カルーソーも、ハイCは出なかったのである。

どこまで出るか?・・・如何にも上辺の価値観であると、感じるのである。

私もやっと、この歳で、中身の濃い高音域のGが、連続性の下に出せるようになったと言う背景には、パッサッジョ域と言う中間音のポジショニングの研究に徹したからだと自負している。

ただし、ぽわ~んとした、凡庸なメンタルでは無く、相当な強い厳しいメンタルが必要なのである。

現代の日本人に、欠落しているメンタルである事は、言うまでもない。

ミーハーでは理解不能なのである。

軽く楽に出る発声=正しい発声
抵抗の多い発声=間違った発声

このように考える人が多いが、そのような単純な枠組みにひっくるめる考え方そのものが誤認なのである。

困難な構築を嫌うのは、一般的であるが、それは、その人の目的論の問題であろう。

どちらにも、メリットとリスクはあるのだ。

私は、困難でも、中身の濃い声を目指す事に人生を賭けている。

のど壊す発声だと?

$
0
0

開き声の先生方の多くは、第二期黄金期の発声をどういう風に受け止めているのかご存知ですか?

「あれは、喉壊す発声!」

との事らしいです。

なるほどね!一番都合の良い言い方ですね。(笑)

確かに、エネルギーが高い分、ちゃんとやらないと喉壊すリスクも多くなると言うものでしょう。

下手に自分でやってると、僅かなズレが命取りとなるリスクです。

ちょっと待て!
喉壊すって?息が太くなり、大きく揺れる声に成るのも、壊れたと同じ事じゃないの?

密度の高い声も、ちゃんとやれば、喉壊れるどころか、調子よく成ってくるのです。

歌えなくなるリスクが多いのは、むしろ、盲点だらけの従来型発声でしょう。

歌えなく成ったという本人の自覚が、発声によるものでは無く、加齢による仕方のない事・・と言う逃げ場が設けられているのでしょうが。

私の生徒さんで、80歳に成られる方は、年々進歩されています。

これを、どう言い訳するのでしょうか?(笑)

誇大妄想に陥る前に・・

$
0
0

私がメソッド更新するべく、誇大妄想に陥る前に、日夜研究に追い込まれる理由は、重く、調整が難しい声を持っていると言う事であろう。

精神論に偏っても、技術体系をある程度解明しても、盲点は潜んでいるのである。

本当、教祖のようにカリスマ性を持って、「私が居るからも~安心しなさい!」なんて、雰囲気タップリに諭してみたいものだが、我の声が、すぐに現実に引き戻してくれるのである(笑)。

そんな私でも、最近は、少し調子に乗っている!
と言うのも、パッサッジョ域から高音域への道筋が見えて来た喜びを感じている。

しかし、それでも、霊界で有名な丹○さんみたいに「私が来たから、も~大丈夫!」なんてとても言えないのである。

何故なら、根気が要るし、ある程度の投資を続けねば成らないし、アッポッジョが上手く行かねば、たちまち不具合を起こすリスクがあるし!

「難しく考えるから出なくなるんだよ!もっとリラックスして~、そうそう!」

この手の手法は、確かに一時的には出る事があるものの、催眠の一種で、心理的な誘導によるアプローチである為に、恒久的なものとは成り得ないのである。

黄金期の素晴らしい声は、日本人が考えているものとは、エラい違いであり、現在、それが、如何に大変か、難しいか、を理解して来たからである。

教える私も、教わる生徒さんも、あらゆる意味で覚悟を持つ必要が出て来る。

厳しい発声なのである。

これで、尻込みする人は、私に師事せぬ方が賢明かと思うのである。

求む!挑戦者!(笑)

開けて流す発声

$
0
0

これは、一見息で流す故に、声帯が個擦れ合う事が無く、安全な歌い方だと思われ易いが、どうしてどうして!太い方向に偏ると、パッサッジョ域や高音域でのピッチとの釣り合いが取れなくなり、喉と胸が締まるように成ってくるのだ。

それでも無理に歌っていると、結節や、ポリープを作る事になる。

一方、ボーチェ・ディ・ゴーラ(喉の声)を多く含む密度が高いタイプは、声帯の接近度は高く、最初から締めている分、ギリギリの所でアッポッジョによる内圧調整により、あるいは、少量のH(気息)を混入させると言う高等テクニックで、声門が擦れる危険性に対しての安全性を確保するものだと、体感より理解している。

あくまでも、体感からの理解なので、客観的事実とは限らないのだが。

密度の高いアッポッジョで成り立つ声の、知覚すべきアイテムは、立体的な空気収納タンクとしての身体による気圧調整。
立体的な寄りかかり感を掴む事である。

そして、腹部のアッポッジョが強くなるに連れて、出口付近を、どうして行けば良いのか?と言う理解である。

要するに、前に行こうとする力に対立する力を、どの程度、どのような感覚にすればバランス取れるか?と言う理解である。

そこら辺は、体力と知力、感、忍耐力、俯瞰力が必要であり、高音域では、狂気にも似た要素が必要であり、常識的な日本人には、このメンタリティーが不足していると思うのである。

大体が、気持ちが流されてしまうのである。

さあ、その壁にぶち当たって、どうするか?が運命の分かれ道であろう。

アッポッジョ楽しや!

$
0
0

最新の発見によるアッポッジョ技術を、連日試しているが、何やらバランスゲームやっている様で楽しくて堪らない!

実は、アッポッジョ、コペルト、キューゾ、声の闘争は、皆、アッポッジョ(下向きの力)とサポート(上向きの力)がせめぎ合った事による現象で繋がっている。

強い下向きの腹圧に対して、それに対立するうなじや、背筋の強い緊張力が必要に成ってくる。

良く、ベルカント派で、下向きの腹部のアッポッジョを否定するやり方があるが、それだけ対立する力も弱く、穏やかな声に成る。
だから、アッポッジョのある近代以降の発声を一括りに「間違った発声」と言っており、それは、あくまでも、それらの人々の美学的観点からの評に過ぎず、絶対的なものでは無い。

特に、日本では、強いアッポッジョのある声を発する事に、随分と心理的、肉体的な隔たりがある故に、自己正当化には、初期ベルカントの立場を取る事が手っ取り早いようである。

しかし、情報が断片的であるが故に、それにも属さない、ガラパゴス的構築化に終わっている。

確かに、声の闘争力、拮抗力が弱い段階では、これも有りで、徐々に負荷をかけて行くと良いと思う。

弱い段階で、無理矢理アッポッジョを強めると、声潰す危険性がある。

アッポッジョの立体的把握により、様々な事柄が見えて来た次第である。

詳しくは、某所で限定動画をアップしている。


アッポッジョのベクトル

$
0
0

アッポッジョとは、息の支えにおいてのバランスの構造であると、体感的に理解している。
狭い意味では、横隔膜のプッシュダウンであり、それに対立する力をサポートと言う。これは、ジェローム・ハインズが提唱している。

さて、何故、横隔膜をプッシュダウンさせるやり方を肯定したり、否定する流派に分かれているのか、体感的に理解した次第である。

軽い声の人間は、その拮抗力はさほど強くしない方が、その楽器そのものの個性が発揮されるわけであり、重い声の人間は、その拮抗力が強く無ければ、バランスが取れないのである。

それに伴い、体感は異なるのである。

どちらかと言うと、重い声の人間が軽い声のメカニズムを押し付けられて、喉が締まってしまうパターンが多く、勿論、その逆もある。

横隔膜や、腹壁の操作は、声種により、男女差により、異なる!と考え無ければならない。

問題なのは、そのような全体を観る目線では無く、一つのパターンを絶対化する事である。

声帯の質量による拮抗力の差異を、バランス論として観る事で、高い次元の目的論に到達出来るのであろう。

政治、経済においても、何を問題とするのか?と言う事で、応急処置に過ぎないのか、根本解決方法なのかに分かれる。

安保法制に関しても、様々な意見があるが、問題は、もっと上の方に有ると感じている。

極論かも知れないが、何党が正義で、何党が悪!なんて、まるで、横隔膜下げるのが悪で、下げないのが善と言う論議に似ている気がする。

物事って、ちょっと知識をかじっただけでは、理解したとは言えないと言う事を、アッポッジョ体感と言う理解を経たお陰で、解って来た次第である。

私の出来る事は、徹底的に探求するのみである!

様々な表現

$
0
0

様々な表現をコントロール可能とするには、幹となる強いアッポッジョによる声の構築が必要かと考えています。

私自身、そのメカニズムを解明し、ある程度、どなたでも体現可能な形の構築法を発見し、いつでも安定度の高い声を発する事が出来るようになりました。

今回、久々の動画公開です。

リンクはこちら

20世紀の発声

$
0
0

20世紀初頭の1940年位までを黄金期の発声とすると、それ以降、様々な形が派生してきたかと思われます。

テノールのアラガルの声は、黄金期以降の、横隔膜や腹部のアッポッジョが余り無く、いわゆる横隔膜を下げないタイプの発声で、息の流れが多いタイプでしょう。

声の止めは、出口付近の仮声帯の接近で作られているように感じます。
喉頭引き下げ筋も、余り働いておらず、全体の印象は、ロマンチック!

プラシド・ドミンゴも、これに似たタイプだと思われます。

私は、このタイプの発声を真似すると、パッサッジョ域から不安定になってしまいます。

アラガルのレッスン動画

オールドスクールに対する見解

$
0
0

第二期黄金期と、現代のモダンタイプと比較して、現代の方が優れている!と言う見解を述べている指導者は、只単に、正当化しているだけであり、私は、何の根拠も無い見解と観ている。

それは、大量生産的、商業的には、一時の成功を成したのであろうが、大量生産だけあって、中身が薄く成ってきた事も事実である。

この傾向に、拍車をかけたのが、マイクロホンの発達による、ポピュリズムによるものであろう。

それも、巧みに初期ベルカントの形と癒着した面があるので、寄り正当化の論拠としてそれを利用されている気がする。

カルーソーの記述でも、「以前はボーチェ・ミスタだった・・」と言うのであるから、この発言は、全くの憶測では無かろう。

厄介なのは、第二期黄金期と、初期ベルカントと、そう変わりは無い!と言う見方である。

叉はカルーソータイプの歌手を、それらのベルカントの例外(特異型)とする見方である。

そうなると、訳が分からなく成ってくるのである。

自己正当化の目的で、様々な見方があろうが、私は、第二期黄金期を模範にして、何ら不具合は無いと考えている。

あれらが邪道であれば、何が正統であるか?

自らの脆弱性の正当化としての否定であれば、そんなもの、結局は、ポピュリズム賛美と、そう違い無いものでは無いのか?

客観的に否定する条件として、それが出来たものである必要があるが、実際は、垣間見た事も無いのが実情であろう。

何故か?と言うところで突き詰めてみれば、その実態は明らかに成ろうと言うものである。

どこまで高い声が楽に出た!なる価値観も、ポピュリズムの産物である!

二次元の耳、三次元の耳!

$
0
0
音声には、口発音、喉発音などの違いがある。
言い換えれば、平面的な二次元音声と、立体的な三次元音声である。

例えば、平面的な画像に慣れている者が、3D画像を観た瞬間、慣れるまで視点がぼやける現象があるが、音声認識においては、もっと、顕著に認識の差異が出るかも知れない。

自らの感性が、口発音による二次元音声を発している影響により、音声認識においても、二次元音声にピントが合う感性に固定されている事である。

一見、平面的音声の方が、はっきりと明るく発音、発声しているように聴こえる事も理解出来るが、立体的音声の奥行きを感知し辛くなるのではと言う疑惑が高まって来た次第である。

要するに、立体的音声をぼやけた音声と認識してしまう人達が多いのではと言うものである。

問題なのは、審査する立場の人間がそのような耳であると言う事である。

勿論、口発音の人でも、ある程度の耳を持っている人が居る事も事実であるが、やはり、それぞれを体感として理解している人の認識とは、雲泥の差がある。

だから、私が、「なんだ?このデカいだけの声は!」と、半ば呆れてしまう演奏に対しても、会場の反応が非常に良かったりする。

要するに、質より量に惑わされるのである。

ある意味、恐るべし、日本語の口発音!

モダンメソッドの一派と、黄金期の違い

$
0
0

発声の最初のアプローチから異なります。
これは、息の流れを優先するか、アッポッジョを主とするかの違いでもあると思います。

さざ波のような、ちりめんに近いビブラートが付くのは、黄金期のアッポッジョタイプでしょう。

モダンメソッドでは、それに対して否定的ですね。

何故なら、根本が異なるのですから。

実際に、両者の発声を体現してみました。

アラガルタイプと、黄金期タイプの違いです。

モダンメソッドと黄金期の実践動画

黄金期の発声で思う事

$
0
0

密度の高い、圧縮されたアッポッジョタイプの発声を体感して思うに、これは、自分がしっかりと自立して、強くある必要を感じます。
聴いた印象も、「孤高な存在」と感じさせるものがあります。

不確定要素も殆ど無く、かっちりと出ています。
実際、歌っていても、割り切れたような、スッキリ感があるのです。

これこそ、技術だと思います。

一方、現代のメソッドでは、息の流れが多い分、不確定要素が多く、身体が楽な分、常に不安定な要素をはらんでいます。

まさに、「上手く行きますように!」と、祈りたくなる要素とも言えましょう。

楽屋が、御守りグッズだらけだった歌手の事を、ジェローム・ハインズの著書で読んだ事がありますが、まさに不安定、不確定要素がもたらす出来事でしょう。

発声と、スピリチュアルって、そんな意味で、親和性があります。

スピリチュアルの部分が多ければ、それだけ、メソッドで不確定要素が多いと言えないでしょうか?

勿論、メンタルと発声の形と、繋がってますが、発声技術により、心も強く安定する!と言うのが真実だと思います。

本当の不安の原因は、不確定要素の多さだと思われます。

技術を理解すれば、例えば、不調の際に、何に気を付け無ければならないのかも、明確に成ってくるのです。

発声は、方程式だと感じている今日この頃です。


キアーロスクーロとの関連性

$
0
0
キアーロスクーロとは、明るく暗い声の事です。
厳密に言うと、笑いの要素と、真面目な要素が同居した声であり、それは、横に引っ張る緊張と縦に引っ張る緊張のぶつかり合いでもあり、それが、「声の闘争」と言うことであり、これらは、実は一つの概念を、別の言い方しているだけ、と言う事を理解してきた。

特に、パッサッジョ域からは、その闘争が強くなり、声が圧縮されると言う事でもある。

圧縮には、アッポッジョが必要である。
アッポッジョが成立するには、各パーツのある一定以上の筋肉抵抗力が必要となり、その抵抗力が弱ければ、強く歌うと、のど声となるわけである。

さて、日本人声楽家の最大の勘違いは、このパッサッジョ域で、声を圧縮せずに、やれマスクを響かせるだの、頭を響かせるだの、圧縮とは正反対の拡散の方向に、良かれと思い、行っているところである。

そうなると、身体への負荷は軽くなり、一見楽に出るが、パッサッジョ域で、それをやらかすと、高音域は薄く、喉が絞まろうとするポジションに行くのである。

パッサッジョ域で、自分の耳に、良く響く、あるいは、マスクが響く、頭が響くなどの感覚になる時は、まず、力が拡散し、その結果、響きが拡散するのである。

自分には、くすんだ、粗雑な声に聴こえるところが、実は正解であり、それが圧縮された声の体感的特徴なのである。

さて、整理してみると、
声の圧縮には、筋力と、バランス感覚が必要!
圧縮された声は、抵抗が多くなる故に、辛い。しかし、自分の耳には、がさがさした汚い音に聴こえる。
常識的感覚では、そこは、最もダメな声と認識してしまう。

如何にパッサッジョ域が鬼門であるか!と言う事である。

高音域が、平べったい声、浮き声、のど声になるのは、その圧縮を経てないからである。

中間音が大切だ!と言うのは、そういう事なのである。

主観、自意識の枠内で歌っていては、ほぼ、到達不可能な世界である。

少ししくじれば、力の性にし、脱力させる・・。
それは、マックスの声の構造を、体感的に理解していない証拠である。要するに、上手く出した事が無いのだ。

それらの指導は、全体の構造を把握出来ていないので、何が不足しているか?と言う観点が無い。
時間を掛けて構築していくように仕向ける事も出来ない。

従って、その場で、すぐに、取り繕うように、付け焼き刃的対処療法に終わるのである。

やはり、出来た者で無ければ、導く事は出来ない。

強い声とは?

$
0
0

声圧が高い声を強い声と言うと思います。

比較的弱い、柔和な声と、強い声とは、元々の声種による、軽い、重いはありますが、軽い声の中でも、マックスの強い声はあります。

さて、その強い声で、パッサッジョ域から高音域に移行する時に、ある出口付近の筋肉を使いますが、この筋肉、情緒的に、激しいものが必要となります。
しかも、それを極力顔に出さない事で、無駄な力を抜くと言う難易度の高さがあります。

その表現力が弱い人、理性的な側面が強い人は、その、激しい感情表現に至る前に、どうしても、ブレーキをかけて、冷静に見送ってしまうと言う事があります。

いずれにしても、鍛えなければ到達不可能なのです。

涼しげなスタイリッシュなメンタルでは、薄っぺらくなってしまいます。

「黄金期の発声は喉潰す!」と言っている人達は、やはり、スタイリッシュなメンタルを前提として言っていると思われます。

スタイリッシュに強い声を出すのは、そもそもが矛盾する事でしょう。

発声練習を、ウォームアップとだけ捉えている人も少なくありません。

訓練としての発声練習を監督するには、その方向性と、バランスに気を付けて、やりすぎず、甘やかさず行って、メンタルも、徐々に付いて来るように注意深く促して行く必要があります。

トレーナーが出来て、構造を、理解している必要があります。

当たり前の話ですが、これが意外な事に、トレーナーに問題が多いのが現状なのです。

「教える事と歌える事は別問題」なる、尤もらしい主張は、あるレベル以上では通用しない、単なる詭弁に過ぎないと言う事でしょう。


ベルカントの支え

$
0
0

これは、ディ・ステーファノが行っている息の支えにも見受けられますが、横隔膜を押し下げる事はしません。

従って、パッサッジョ域からも、柔和な明るい印象の声となり、普通は横に開いた声に成ります。
ディ・ステーファノは、そこで歌いきってしまうので、「カンツォーネのようにオペラを歌う歌手」と言う評を生み出すのでしょう。
肋骨による止めが強いと思われますが、その詳細ははっきりしません。

そこを押し下げて、それに対立点する力が弱いと、暗く、押し殺したような声になります。

一方、黄金期では、その対立によるバランス化の可能な最大値を感じます。

いずれにしても、横隔膜を押し下げる事を禁じ、それを前提に組み立てる発声は、表現に上限があります。
それを打ち破る程の表現は、禁じられている筈です。

それが、ロッシーニの嘆きの本質なのかも知れません。

まあ、憶測ですが・・・。

とりあえずレッジェーロ!?

$
0
0

どうも、日本の声楽界は、少し重めの声の人には、とりあえず、「あなたは、本当は、レッジェーロだけど、発声が間違って重く歌っているから・・・」とまでは言わないものの、とりあえずレッジェーロと言うレッテルを貼るのが好きなようである。

日本人声楽家は、皆、レッジェーロだというデマは、日本語の発音の特質で、平べったく成っているだけで、それを欧米人の指導者は、「狭い喉」と、勘違いし、「日本人は、皆レッジェーロ」みたいなデマが広まったようである。

その流れを汲み(笑)、とりあえず、重い声の人に、「あなたは本当は、レッジェーロだけど・・・」などと言うと、一時的にも、優位な立場に成れる事も相まって、その台詞自体が、流行っているようである。

「とりあえずビール」的であり、何の根拠も無いのである。

私は、その歌手が本来重い声なのに、無理に高い声種にさせられているのか、本来軽い声なのに、弛んで重く成っているのかは、判別出来る。

うちには、その、とりあえずレッジェーロの犠牲者が多い。勿論、その逆もある。
そして、水を得た魚の如く、生き生きと、本来の声種を全うするのである。

もう一つ考えられる原因は、指導者が、重い声特有の、声の奥行き、陰影を聴き取れず、表面だけの、少しぼやけたところだけを聴き、その、重い声特有の、表面的には、少しぼやけたところを、希薄な軽い声と認識し、本来メゾなのに、レッジェーロと誤認してしまうパターンも可能性として充分に有りうるのである。

専門家の耳が平面的で狂ってるって、致命的で、一般には、信じられない事かも知れないが、様々な批評を分析するに、どうやら、その可能性が大きいと言わざるを得ないのである。

そうなってくると、事態は、陰謀論的な観点で読み取らねばならないのかも知れない。

権威を疑え!
と言う世界である。

うなじの疲れ

$
0
0

アッポッジョ完結した現在、ネックはうなじから背中、腰への負荷による疲労です。

具合悪いと思ったら、歌わずに休息して下さい。

その、疲労が回復する度に、声が整って来るのが分かります。

疲労を残したまま、練習続けると、声帯の負担が増えて来ます。

気を付けましょう。

Viewing all 7755 articles
Browse latest View live