リラックスと、中音域、高音域でのフォルテとが上手く行き出すと、声が面白いように出て来ます。
しかし、ある時、「なんだか、やけに簡単に出るように成ったなあ?」と歌っていると、途端に声が、カサついて、出なくなる事があります。
その時は、身体もやけに楽に成っている筈です。
マインドも楽に、身体も楽に・・?
これ、あかんやつ!!ただの喉声ってやつ!
そう!ただの喉声と紙一重なのです。
なにがどうなっているのでしょう?
これは、うなじが疲れて、柔軟性を失って来た時に、良く起きる現象で、うなじのアッポッジョが無くなり、喉だけに成ってしまうパターンです。
そんな時、この指圧器で指圧した後に出してみて下さい。
うなじの柔軟性が一時的に復活し、声の抵抗が増え、声帯の負担が軽く成ります。
うなじの柔軟性が復活すると、自分では、やけにビンビンしていた声がこもったように聴こえ出します。
背中の筋肉でも、同じ事が言えます。
自意識で、声門を直接閉じようとしても、同じ様な喉だけの声現象が引き起こされます。
これ、声楽発声には、欠かせないアイテムだと思います。
首指圧器へリンク
うなじの凝り、疲労に要注意!
現代の声
明らかにこのバリトンの音声は、黄金期とは異なり、気息的な広がりを感じます。
パッサッジョ域が、幾分アペルト化しますが、声帯への直接的危険度は低いと思われます。
その演奏へリンク
一方、黄金期や、その後のメロッキ派に観られる、強く英雄的音声については、次の記事にお伝えします。
喉に関する知覚
世界的に、喉に関する知覚は、大きく分けて二分するようだ。
喉は筒に過ぎず、息は通過し、喉など存在しないかのような感覚を唱える人達!
一方では、喉頭を下げ、喉のアッポッジョや、その下部にある胸骨を常に感じる人達!
後者は、特に輝かしい力強い音声を生み出すが、訓練期間が相当必要であり、さもなくば、脆弱な喉では、途端に疲労に陥り出なくなるようである。
しかも、相当なアッポッジョを伴わねば、あっと言う間に声帯に負担が生じると言う、危険性も含んでいるようである。
リチャード・タッカーも、力強いタイプの一人であるが、彼の周辺では、「あの歌手の発声では、5年で潰れてしまうだろう!」と、囁かれていたようである。
しかし、潰れるどころか、晩年も、立派に歌えていたのである。
タッカーの音声動画
どうやら、この手の批判は、この種の発声を達成した事が無い、別の流派や、アッポッジョがいい加減な為に潰してしまった人達の、嫉妬が絡んでいる事が伺える。
私は、日本でガラパゴス的に広まった、従来型発声は、どうやら、海外においても、同じ様な価値観を持つ人々により、言い伝えられて来たものだと理解してきた。
ジェローム・ハインズの「四声論」に、全て書かれていた事である。
追記するが、喉を開くと言う事は、欠伸を持ち出される事が多いが、それは、明らかに誤りである事も明記しているのである。
日本人声楽家の、この手の情報を知らないで、従来型を信じている方は、是非、四声論を読んで欲しいものである。
メロッキ派の支え
私のやり方も、どちらかと言うと、メロッキ派に近いと思う。
ジェローム・ハインズが、ある、メロッキ派の歌手に、腹部を横に押し広げる事で、声帯への負担を軽くする事を教わったようであるが、何故腹部を横に押し広げるのか、解った。
音が高く成るに連れて、上に上がろうとする気圧を、下に押さえ込む力と、息を送り出そうとする、下腹部の緊張での狭間に、気圧の逃げ道と言うか、弾力性を確保すると言おうか、どの道、横に押すしか方法が無いのである。
上下の拮抗だけでは不充分な位、パワフルな発声と言う事であろう。
これらの力のバランスは、言う程、簡単では無い。
そこが難しいところである。
H(気息音)の活用
逆に言うと、このエネルギーの高いタイプの歌唱技術は、奥が深く、バランス化において、関与するアイテムが多いと思われる事から、感覚的盲点も発生し易く、それだけバランスが崩れる要素が増えると言うリスクを背負っていると言えよう。
ちょっとやって、いい気に成り、盲点を抱えながら歌い続けると、結節、ポリープを患ってしまう恐れ大である。
結節、ポリープの怖いところは、声帯その物には知覚神経が無く、痛くもかゆくも無いところであろう。
喉がヒリヒリする、なんて感覚は、その周辺の組織での話なのである。
何故だか皆さん、声と言う身近なものに関して、テクニックも比較的身近で、簡単なものとして認識する傾向にある。
簡単なコツさえ掴めば、何とかなる!と認識し易い代物であろう。
私とて、今回、抽象度高い感覚で、声の新世界を体感したものの、そのステージでの、安定性と、安全性、恒常性に関して、山のように、細かな課題が突きつけられた思いであり、日々、検証に没頭している始末である。
そして、日々、発見の連続である。
この作業は、恐らく、一生続くであろう。
そんな中、具体的な方法の一つとして、結節防止のテクニックに、「僅かな気息音Hを混入させる」と言うものがある。
これは、密度の高い声で歌う歌手には、必ずと言って良い程使用されている。
イタリア語にはHが無い!と言う、建て前の定義を絶対視すると、見えなくなる事であろう。
このテクニックは、危険回避の無意識的反応に近いと思われるが、トレーニングされていない段階で、やたらめったらやると、「何咳してんだ?」程度のものに成ってしまう事も考えられる。
とにかく、日々、研究三昧である。(苦笑)
腹がカッチコチはダメ!
腹部のアッポッジョと称し、腹筋をやたら目ったら硬くしてしまうと、息が停滞してしまい、喉と分離して、過度な喉声と化してしまいます。
腹斜筋は、硬くなっても、鳩尾辺りが、肋骨が、閉じ切って、カチカチでは、いけません。
腹部のアッポッジョは、上向きのサポート筋の働きに拮抗する形で、横隔膜により注意深く行う必要があるようです。
と言っても、難しいので、もっと、総合的なな見地で述べると、うなじのアッポッジョとのセットで有効になるようです。
これにより、鼻に声が行っているにも拘わらず、鼻声に成らない秘密も隠されています。
お分かりでしょうか?
これらをレッスンで、全て教えています。
役に立たない常套句
ジェローム・ハインズは、著書の中で、「良い歌唱は、語るようにとか、頭の中だけの理解とは、比べものにならない事柄・・」と、明記しています。
そして、旧メトロポリタン歌劇場の歌手達を悩ませたものは、声楽発声における、言い伝え、常套句でもあったようです。
余りにも大雑把であり、前提条件を無視した格言が多いからだと思います。
実際、「音を保持せよ!」 を鵜呑みにしたテナーが、その強靭な肉体をフルに使い、音を保持すべく歌ったら、高音域での割れ声が酷くなったようである。
その他、様々な常套句があるが、どれも、謎解きの如く大雑把であり、誤解を招くものばかりである。
同時に、知ったか振りにも、持って来いの代物であろう。(笑)
後は、オペラでの強く、ピントの合った声を出す為には、強い呼気、そのためのサポート筋が必要である事も明記しています。
ここで言われてるサポート筋とは、腹筋群、背筋群、首の筋肉の事で、アッポッジョは、横隔膜の、それに対立する力である。
中でも、背筋、首の筋肉の重要性に触れている事も面白く、どちらかと言うと、弛緩を奨励している、あるいは触れていない書物が多い。
発声の勉強をしなくても、天賦の才により、素晴らしく歌えてしまう歌手は、同時に傷付き易く、崩れても、その感覚のまま歌ってしまい、発声の修正をせぬ限り立ち直れなくなるようである。
まあ、とにかく、厄介で難解な世界に踏み込んでしまったものだと、改めて感じている次第である。(笑)
頭のクールダウン
フォルテ(強い音)を出す際に、あるいは中音域、高音域を出す際に、気を付けている事は、気持ち(頭)をクールダウンさせることであるが、どうやら、ただの脱力とも異なる代物である事が分かってきた。
これは、うなじの緊張とも関係が深く、うなじが弛緩している時は、ボーッとしているが、うなじを少し緊張させると、頭の中が、明瞭になり、クールダウンしたように冷静に成るのである。
やはり、うなじは重要なアイテムのようである。
ちなみに、うなじを常に弛緩させると、胸骨が落ち込み、そのまま、がに股で歩いてみて欲しい。
それは、まさに、チンピラのスタイルと成るのである。
凛とした雰囲気も、うなじの適度な緊張がもたらすと言っても過言では無かろうが、それは、もっと抽象度の高いマインドがもたらす現象である。
しかしながら、修正論では、その部分的な概念が、役に立つと言う事であろう。
トレーナーは、どちらも熟知している必要があり、勿論、自分が体現出来ねば、真の理解には及ばないのである。
そのためには、歌手以上に、発声にかける時間は必要となり、全時間奉仕者では無いが、それに近いものに余儀無くされるのである。
私が、孤独で居られるのも、その用事があるからであろう。
魅力と継続性の兼ね合い
それは、喉の声の割合で、喉のアッポッジョにも関係します。
自分でも、「これ、魅力的だ!」と感じる声を発した時は、少し、喉のアッポッジョが多い割合の時であり、それが継続性をも有する正しい発声とは成らない事も面白い。
近い将来、喉声に偏り、声割れを生じさせる事になるのは、私の人体実験でも明らかに成った事である。
継続性、体感的整合性、実際に出ている音声、これらを総合的に判断して、何を選ぶか?と言う問題である。
顎関節を弛める事について
良く、発声の指導で、顎関節を弛めて、顎を落とす事を重要視して、やらせる場面がありますね。
これ、下手すると、響きのポジションが落ちて、ボーボー声に成ったり、パッサッジョ域より、声のピントがぼやけたりする原因にも成ります。
では、何がマズいのでしょう?
それは、最初に、これを重要視してしまう事に問題があるのです。
この問題の真相は、アッポッジョのバランスが適切に構築されて、初めて顎関節を弛めると言う作業が生きて来るのです。
この事は、某所での限定動画で説明してますが、ここでは控えさせて頂いてます。
ご了承願います。
顎関節を弛める発声とは?
先程、実験で検証した結果、顎関節を弛める発声とは?
結論、現代、世界的に流通している発声であるであろう事が判明して来ました。
このタイプの特徴は、声帯への直接的ダメージは少ないものの、最高音では、顎を最大限に開ける事のみで成立するので、息が太く成ってしまうと、高音域が失われる、良くある結末に成ってしまうだろうと予測出来るものであった。
その他、様々な形を検証しているが、発声とは、一筋縄では語れないと理解して来た次第である。
私は、全てのタイプを俯瞰出来る存在を目指している!
専門家の無知
それ、何十年前の、どこの情報か?
なんて事、あるようだ。
とにかく、インターネットの出現で、世界は変わりつつある。
日本人声楽家の演奏を、インターネットで聴くに、やはり、発声での決定的な勘違いは、パッサッジョ域での処理であると断言出来る。
皆さん、そこを楽に、負荷を少なく歌おうとしている事による、音声の歪みに気付いているのか?いないのか?
大体が、そこが上擦って不安定になり、そもそも、全体的にも心に響いて来ない。
通り過ぎる声、あるいは、届かない声なのである。
楽に開けて、頭声で、息を流す、回す・・と言う事をやっているだけなのである。
何故、このような現状になっているかと言うと、技術面で述べると、アッポッジャーレやアッポッジョの情報が無く、その技術が知られていない、理解されていない、あるいは、日常の喋る時のエネルギーとはかけ離れたものであると言う認識が無い事であるのであろう。
従って、その派生としての、キューゾも理解されていない!
つまりは、肝心要の技術が解らずじまいの状況にあると言えよう。
私は、その全てを解明し、批判だけの存在では無く、より良い技術向上の為に一石を投じたいと思っている。
吸気時の喉頭
吸気時に、喉仏が下がりすぎる傾向にある人は要注意である。
喉頭引き下げ筋が充分に働かない段階で、吸気時に、喉仏が下がりすぎる傾向にある人は、発声の瞬間に、喉頭が上がるか、もしくは、下がり過ぎて、固まってしまうかのどちらかに成りうる可能性が大である。
吸気時は、むしろ、普段の寝息に近い感覚で吸うと、喉頭は下がり過ぎないで、発声の瞬間に、喉頭が更に下がるだけの余裕が生まれ、硬直を防げる。
私が、普段から心掛けていた事は、吸気時に、喉頭を下げる癖を正すべく、喉頭を下げないで吸気する事だった。
煙草を吸う人は、特に喉頭を引き下げて息を吸う癖が付くので、注意されたし!
日本人の声に対する勘違い
などと、信じ込んでいるようである。
有名オペラ歌手の講習会などでも、そのような事を指導している有り様であり、真面目で従順な日本人は、それを鵜呑みにして、大切に絶対化している有り様なのである。
有名オペラ歌手の言う事だから正しい!と、反射的に信じてしまうのである。
だから、海外にまで留学し、声を潰す人が続出する訳である。
有名オペラ歌手と言えど、指導力など、その程度なのである。しかもその論拠など、極めていい加減なものなのである。
そんなレッスン、受けない方がよっぽど声の為に良いと言うものである。(笑)
ダムを作る
某レッスン生が、私の新発見を体感した結果、「アッポッジョに必須な事は、如何にして息を閉じ込めるダムを作るかと言う事である。その静力学の前提条件があるから動力学としての声、息の放出が確実なものとなる!」とまとめ上げた。
そのダムの枠内の圧を、しっかりと受け止める枠を作る、鍛える為の訓練としての発声、と言う概念が、非常に乏しいのが、従来型の発声と言えるだろう。
その枠が曖昧、脆弱であるから、アタッコが、咳き込んだような、犬が吼えたような
罵声と成ってしまうのである。
アタッコとは、只単に「開始」と言うニュアンスだけでは無く、「強いアタッコ」と言う概念もある以上、しっかりと音を立ち上げるもので無くては成らない。
本当に「開始」と言うニュアンスだけなら、inizioで良い筈である。
アタッコとは、しっかりとしたダムの枠組みの前提条件で成立可能なアッポッジョと、非常に関連性の高い概念だったという話である。
学校からの帰り道
短大の幼児教育の音楽と言えど、講師陣は一流路線の音楽家ばかり!
私にとって、唯一、横の繋がりを楽しめる時間である。
特にピアニスト、音楽教育者などと、学校での休憩時間、昼食、小田急線での帰り道など、談義に華を咲かせる事も楽しみの一つである。
基本的にピアニストの先生方は、声楽家に比べると、かなり真面目な方が多く、私が話す、馬鹿話など、果たして如何なものと思われているのか・・・?
ピアニストから見た声楽家は、やはり「変わった方々多いですよね。」と言われる事が多い。
私が言うのも変だが、声楽家って、くせ者多いと思いますです。
私はあくまでも、発声研究家であり、声楽家と言うカテゴリーに入らないと思う。どちらかと言うと、器楽の人寄りの気質だと思っている・・。
だから、私は、声楽家と同じにされる事に抵抗感を感じる。
本来は、金管楽器のチューバで、音大か、島根大学の教育学部行こうかと本気で思っていたのである。
運命の悪戯か、宿命か?
今現在が在るのである。
さて、これから運命の神は、私に何をさせようとしているのか?何をしでかすのか?
それは、後のお楽しみ!(笑)
すいません!
居酒屋で酔っ払いながらアップしているので、支離滅裂になりました。
あしからず。
メリットとリスク
黄金期の発声と、現代の発声における、メリットとリスクをまとめました。
黄金期の発声
メリット・・強く、密度が高く、声の焦点がくっきりと明瞭で、喉の声も多く、非常に個性的で、存在感が強い。
リスク・・強い力での声なので、アッポッジョによるその力の配分のバランスが失われると、たちまち喉に負担が増えて、結節やポリープなどの不具合を生じさせる危険性を伴う。
アッポッジョやポジショニングに相当な時間を掛けて、技術を磨いて成り立つ為、構築期間は、訓練に徹せねば成らない。
それが安定すれば、かなりの高齢でも、立派に歌えるが、破綻する歌手も多く居た。
現代の発声
メリット・・黄金期に比べ、顎を楽に落とす傾向にあり、その分止める為の緊張が弛み、息の流れに変換される。
現代の声が息っぽいのもそのためである。
息の流れが比較的多い為、ボリューム感はあり、声帯そのものへのダメージは少ない。
アッポッジョに要する力も、比較的少なく、楽である為に、演劇的要素を多分に盛り込める。
リスク・・顎を楽に大きく落とす事に寄り息の流れが多い分、最高音は、どうしても、顎を最大限に開けて声の抵抗を作り出す為、老化などでパッサッジョ域からの止める力が弱まると、たちまち息が太くなり、パッサッジョ域からが歪み、最高音は出なくなってくる。
また、大きく揺れるトレモロを起こし、ピッチが不明瞭となる。
中低音でのバランスの上に高音域が在るので、高音域で急に声の抵抗を強めようと試みても、微調整力に乏しい処方となり、音は歪む一方である。
さて、これらの事を踏まえると、「発声とは・・こうである!」と、簡単に語れるような代物では無い事がお分かりかと思う。
単純化した理屈で、おおざっぱな理論で挑んでいると、必ず盲点にやられるのである。
息の流れが絶対だ!とすれば、腹部のアッポッジョが不充分になり、最高音が歪むし、喉の声や、喉のアッポッジョに偏れば(若手テノールに多い)近い将来、喉声過多による、結節になるだろうし・・。
また、下腹部での支えに偏れば、鼠径ヘルニア(脱腸)になる可能性は増える。
技を磨かねば、必ずや偏りを生じさせる事になるのである。
発声とは、そもそもが、構築、維持が非常に難しく、メンテナンスにも費用が掛かる、機械時計のようなものである。
いや、もっと複雑である。
特製鍋スープ
身体の関連性
大体において、注意する、助言する内容は、身体の一部のみに限定される事が多く、それにより、他の部位へ、どのような影響があるのか?どのような関連性で繋がっているのか?と言う見識が乏しいのが現状では無かろうか?
と言う事は、それら全てがセットとなり、ある程度の連動性の下で成り立っているのである。
そこを把握しない限り、疲労や筋力不足に対応出来なくなって、偶然性に委ねる事になり、その不確実性が、不安感をももたらす事にもなるのである。
その他、良くある誤認のパターンは、ある条件を絶対化し、固定化されたその前提で組み立てようとするパターンである。
顎は楽に大きく落とさねば成らない!
胸は高く(あるいは落として脱力)しなければならない!
足は肩幅に開いて(あるいはピタッと閉じて)立たねば成らない。
などなど、末端を固定化する事は、ある種の効果もあるが、総じて弊害を伴うものである。
胸骨の適切な位置も、非常に微妙なところであり、やはり、アッポッジョと呼吸と言う流動性と、ある程度の静力学の基でのバランスの結果であるものが、フォームとなるように仕向ける事が大切であると思う。
視点、視野の硬直化は、根幹では無い事を根幹と錯覚する事であると言えるのでは無かろうか。
喉の声考
ボーチェ・ディ・ゴーラとは、喉声の事ですが、これは、必要な声である事としての概念であり、喉声の何がダメかと言うと、過度な喉声がダメだ!と言う話である。
日本の声楽教育の最も危惧されるところは、何が何でも喉声はダメ!とする、短絡的思考が支配的な事だ。
だから、無個性的な声であり、声の輪郭がはっきりしないのであろう。
どんなに発声が良くても、歌い過ぎれば、声帯にダメージはある。
アッポッジョとは、声帯への負荷を分散させ軽減させる技法と言う事である。
即ち、喉声とは、出口の止め、寄りかかりでもある以上、それがある程度無ければ、アッポッジョも成立しない事は、理屈でも分かるだろう。
尤も、出口での止め、寄りかかりは、声帯だけでは無く、喉周辺の筋肉をフルに使う。
声帯のアッポッジョに偏った場合が問題なのである。
若くて、柔軟性ある時期は、それでも、ある程度身体が反射的に対応してくれるから、ある程度は歌えるが、いずれは結節を患う事になるであろう。
だからと言って、喉声を過度に忌み嫌う事は、発達の芽を摘んでしまう事にもなる。
オールオアナッシング的な短絡的思考から抜け出すには、それに染まっている身近な社会的安定性の枠から抜け出す必要があろう。
それとて、さほど複雑な話をしている訳では無く、バランスの問題だと言っているに過ぎない。
ボーチェ・ディ・ゴーラを、素直に喉の声と解釈すれば、その本質が見えて来るのに、喉声はダメだ!と言う頭が在りすぎて、喉声では無く「喉が響く声」などと曲解するから、分からなくなって来るのである!
何故そのように成って来るのかと言うと、自分が出来ていない、体感したことが無いからである・・・と言ってしまえば、はいそれまでよ!と成ってしまうが、まさに、アッポッジョと言う概念を体現、体感する事が先決であろう。
出来もしない人間が、言い訳がましく、ああだこうだ言っても、仕方が無いのである。
しかしながら、ブレスタイプを取り上げてみても、10通り近く、異なるタイプが存在する事の意味を考えても、それぞれのメリット、リスクがあると言う事でもあり、そこには、異なるタイプが各々持ち合わせる、表情論的な差異にも繋がると言う事でもあろう。
それを網羅するには、最もハードなマックスタイプを経験すると、良いかも知れない。
形が変化すると言う事は、若干の力に対する枠の遊びがあると言うことであろうから。
アッポッジョ(寄りかかりによる支え)の一部に、喉もあるよ!と言うだけの話である。