声は、言語を越えた周辺言語です。
声の様々な現象を言葉にしても、必ず、その隙間の現象があり、そこが言語による盲点と成るのです。
言語至上主義的に声を捉えると、例えばその言語の定義には当てはまっていても、根本がズレている場合は、その概念は、有害となるのです。
先日も、ある生徒さんが言っておられましたが、自分で練習していると、声の主従を履き違えて、従に拘って、主を見失っている事が多いと思う!との事です。
要するに、自己判断能力が未熟な状態で、いくら頭をフル回転させても、未熟者の愚行と成ってしまうのです。
しかし、言語とは、そんな状態でも、理解した気にさせてくれるので、恐ろしいと思います。
言語とは、悟りに至らなくさせる道具とも言えるのではないか?と思う事が多いです。
真実を覆い隠したり、ごまかしたり、すり替えたり。
いずれにしても、発声は抽象度高い悟りの世界でもあると思います。
一つの部分的概念に拘っているうちは、未熟者なのでしょう。(笑)