如何に巷のメソッドがいい加減なものであるか?と言う事に関して、言わせて頂くと、例えば、一部の力の作用を拡大解釈して、絶対視する事で、バランスが成り立たなく成る事と、そもそもが、偏りのある理屈であるから、抽象度高いバランス論に繋がる筈は無い。
そして、そのいい加減なメソッドからは、「感情などどうあれ、声なんて、操作により良い声に成るし、聴衆も喜ぶものだ!」などと言う気持ちを生み出してしまうのであろう。
例えば、キューゾとは何か?と言う問に対して、ただ単に物理的に操作するだけでは不充分であり、その抽象度高い感情のバランス化において、どのように成っているのか?と言う観点が必然なのである。
そもそも、教える側が、抽象度低いだけでなく、偏りのあるものの見方をしている事が大問題であり、それは、残念な事に、全て歌声に表れているのである。
わざとらしさ、かっこつけ、気取り過ぎ、嫌みっぽさ、おとなしいだけ、無表情、儚さ、平べったさ、淀み、くそ真面目、媚び、などなど、様々な歪みを生み出すものである。
そもそも、声で「なになにをやってるように見せよう!」と言うものでは無く、「なになにである!」と言う状態が声になるわけである。
抽象度低い上に、誤った具体案を強いられたのでは、声のみならず、マインドまで悪影響が及ぶと言うものである。
誤った具体案に洗脳されていれば、声に対しての認識も狂ったものになるのは当然であり、その事を踏まえると、下手に染まっていないアマチュアの人の方が、よっぽどまともな感性であろう事は、言うまでも無いことである。
おかしな不充分な声を手本とするわけであるからである。
今回の動画は、声の輝きの裏にあるもの!?について述べております。