まさに戦後の教育は、合理主義的な色合いが濃く、一見良さそうに思えるが、そのカリキュラムを今になって思い返せば、「物事の関連性を見出す能力を奪う教育」が展開されて来たように思う。
機械的な暗記能力に長けた者が成績優秀者と成るのである。(それはそれで立派な能力だが・・)
科目ごとにバラバラに詰め込んで行く。
科目ごとの敷居が出来上がる。
もし、これが、一つの題材から発生する関連性において、様々な分野に及ぶ講義が為されたら、どれだけ興味深いものに成っていたのだろうか?
恐らく、その興味深い不都合な真実を隠そうとする意図が働いているのであろう。
そんな意味からも、本当の勉学は、学校では出来ないと言っても過言では無かろう。
まず、国語教育!
これは、五十音順と言う概念から、拙いと思う。
何の意味合いも無い、五十音順に、発音させる事に疑問を持つ。
そう言う観点では、それ以前の、いろはにほへと(色は匂へど散りぬるを)の方が、よっぽど活き活きとしている!
物事を分断し、関連性を見出させない教育!
これこそが、一億総白雉化計画なのではなかろうか?
すぐに、関連性ある事でも、「それとこれとは別の話!」とか、「勝手な妄想」などと言う、論客も、その被害者では無かろうか?
類推する事を、不確かなもの!と、決め付ける思考である。
考えてみれば、そのような分断、分割は、合理主義(都合よく家畜化する為の合理)の下で人間が勝手に作り出した思考パターンであり、実際は、関連性で総ては繋がっているのである。
その把握は、感性の領域でもある。
本当の教養とは、その関連性を如何に把握するか?と言う事では無かろうか?
資本主義の原則の一つに、役割分担の概念があるが、その概念も、謀略の一つではと言う疑いも生じて来るのである。(間違っているかも知れないが)
何故なら、資本主義の本質は、実は銀行が金融支配する社会なのだから・・。
「つべこべ言わず考えず、せっせと効率良く働いて借金返済しろ!」と言うものなのである。
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バカを作る学校
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