理性と言語を重んじる風潮が、いつからのものなのかは分からないが、それにより、現代人が、様々なメンタル的不具合を抱えている事を感じる。
その偏りにより、それが、人を騙すための道具にも成っている。
そして、まんまと騙されている。
私自身を振り返って痛感するのだが、パッサッジョで、充実感のある良い声を出した時に、「最も汚く罪深い声」と感じる事を取り上げても、如何に社会的洗脳による抑圧に毒されて居るのかが解ると言うものである。
言語至上主義的な見方のみであると、自らの情緒とのバランスなどお構い無しと成ってしまう事も充分考えられる。
言葉は、道具なのであり、本質では無い!
理性と情緒、あるいは、言語と情緒とのバランスを考えるに、情緒を知る為にも成長の為にも、表現のプレイヤーとしての研鑽により、等身大の自分を把握し、本当の情緒の安定と、自信を身に付ける事が、可能になるのでは無かろうかと思う次第である。
パッサッジョに対し、抽象度の高い対処法を垣間見た今、この年齢になり、やっと心の落ち着きを取り戻したかのような、マインドが、身体と同化したような安らかな気持ちに成っている自分に気付いて、そんな事を考えている次第である。
発声により、萎縮したマインドを本来の物に回復させる事への可能性、即ちセラピーとしてのビジネスチャンスも大いに期待出来ると思う。
ただし、いい加減なものは、虚栄心を擽るに留まるのでだろう。(笑)
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理性と言語の限界
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