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Channel: Old school オペラ発声研究家 宮前区在住 永田孝志の日々
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言語化の落とし穴と社会的風潮

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感覚そのものを言語化すると、必ず盲点が出来てしまう。
直接、黄金期の発声手法を受け継ぐには、やはりレッスンによる必要があるだろう。
言語化すればするほど、見えなく成ってくるのが、発声における感覚そのものであり、自分の言語認識想定内枠の外にある、非言語的世界でもあると思っている。
つまり、怒り、哀しみ、苦しさ、喜び、笑いなどの情緒的な表現が、言語化的脳により抑えつけられてはいまいか?
そのそれぞれの感情の強い拮抗で保たれる情緒的バランスなる世界は、それこそ、特別な訓練が必要であり、言語を越えた世界故に、言語に置き換えようとする試み自体がそれを不可能にしてしまう事にも成るのである。

これは、理屈が先に立つ人の欠点でもある。
「何々筋を働かせて!」などと意識しても、考える事自体が、その他の肝心な筋肉を不活性化させる事に成るのである。

言語と情緒のバランスの問題もある。

常に下や横向いた目つきで、ブツブツ独り言言っているような雰囲気や、国語の教科書の下手な朗読しているような喋り方では、そのバランスは決して良いとは言えない。

さて、その黄金期の発声を伝えるべく人材が、世界大戦で亡くなり、断片的言語が散らばってしまったのでは無かろうか?

そこには、沢山の偏り、誤解を生み出す原因が潜んで居るのであろう。

そして、何時しか時代の風潮に合わせた断片的言語による偏った価値がクローズアップされて、歌唱技術そのものが衰退する事と成る。

楽に、軽く、流して、動いて!などである。

オペラの価値の第一は、何と言っても人間の声であるが、それが、何時しか価値が並列化され、演技が、音楽が、衣装が、など、重んじられ、何と言っても指揮者の権限が絶対化した事により、歌手が疲弊してしまう構造と名って行き、挙げ句の果ては、マイク(拡声器)を使用すると言う始末である。

この様に形式化してしてしまった背景は、やはり社会的仕向けにあるのであろう。

電気製品でも、洋服でも、家屋でも、昔は丈夫だったのであるが、今は下手に丈夫だと、利益が出ないのである。

入れ替え、出入りが激しく無いと、都合が悪いのである。

歌手も、声の構造が脆く、希薄である故に、すぐにダメになり、その代わりなど、いくらでも居るよ!と言う状態なのである。

使い捨てでなければ、成り立たない社会なのである。

せめて、芸事くらいは、その流れに反して欲しいのだが?

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