素晴らしい声とは、願いや想いのような夢想や陶酔の産物では無く、冷静に編み出された、当たり前の現実としての現象である事を、今一度考え直す必要があるのでは無かろうか。
往々にして、リスナーとしての音楽への陶酔状態で歌おうとしているのでは無かろうか?
そう言うものを、音楽性と倒錯して、最後の息吹の如く、大切にしているのでは無いだろうか?
それらは、技術的隙間を、手っ取り早く仮初めに埋めてくれるのだからたちが悪いのである。
コンダクター的な音楽的感性による流れの演出能力が、夢想的なものと親和性がある。
そう言えば、指揮者カラヤンと歌手エットレ・バスティアニーニ(バリトン)とのいざこざも、そう言う事では無かろうか?
つまりは、正統派の声の現実を、カラヤンは無視し、その夢想にバスティアニーニの声の現実は、追い付けなかったのである。
その結果、軽いバリトンであるアルド・プロッテイが採用された事で、身軽さが重宝される時代の幕開けになったのだと思う。
カラヤンが黄金期スタイルを否定した!と言っても良いだろう。
それを覆すだけのカリスマ指揮者は現れず、未だにカラヤンは生き続けているのであろうか?
夢想状態で口ずさむ時の声は、弱々しく息っぽい。(笑)
何かを哀願する時も、息である。
バスティアニーニの声は、形に則った現実的な声であるから、その性質もハッキリしている。
逆に、何でも対応出来てしまう声は、指揮者には都合が良いだろうが、その自由なる性質とは、必然的に希薄な傾向となるのである。
究極な自由とは、夢想の世界そのものであり、現実の存在とは異なり、あやふやなものである。
そのあやふやなものを最後の砦として大切にしておく気持ちも解らないでは無いが、現実の声の形があやふやである事の象徴的心情であれば、それは、思考停止以外のなにものでも無いと思うのである。
声を、現実の現象として、しっかりと管理、コントロールする事は、決して夢想ではなく、しっかりとした現実感の元で為し得るのである。
これは、意外と、初歩的な問題でありながら、気付かずにやってしまっている事では無かろうか。