アッポッジョと言う概念が知られていなかった、以前の呼吸法は、圧倒的に腹式呼吸が一般的であり、医学者など、今でも腹式呼吸を推奨している。
胸式呼吸は、首などの硬直を生み出し、力みに繋がるからダメ!
一方、腹式呼吸は、「喉頭より比較的遠くからのアプローチで、緊張の影響が喉頭に及ばないので、発声には優れた呼吸である!」
などの、まことしやかな理屈で、誰も今まで疑う事無く信じていた訳である。
私は以前から、その説に疑問を持っていたのだが、逆に「何故、誰も疑問を持たないのだろうか?」と不思議で仕方なかった。
その後、「胸式呼吸は、医学的には正しい呼吸」などと言いながらも、「歌には余り適さない」などと言う、これまた「何故?」と突っ込みたくなる説が浮上して来た。
今思えば、如何に専門家がいい加減な事を言っていたか!と言う、残念な結論に至るのである。
一流歌手達の映像には、胸郭が持ち上がる様子が随所に現れているにも拘わらず、それを無視し、挙げ句の果てには、「・・が故に良いのではなく、・・にも拘わらず良い事例で、我々は真似をしてはならない!」などと、屁理屈をこねる始末である。
詭弁に関しての矛盾感は、本当に気持ち悪さを引き起こすものである。
「偉い先生が言うことは本当の事で、偉い先生が認めないものは価値がない、存在しない!」
このような、演繹法的な悪循環の中、やっと正統的なアッポッジョと言う概念が知られる事と成った事は、喜ばしい事ではあるが、大体、声楽家の研究者の立場の人間が、リチャード・ミラーのミの字も知らないと言う事実には、この世界の体質が伺えるものである。
要するに、胸式呼吸、腹式呼吸などの一部分に拘った物でなく、全体のバランスの中の一部として胸式と腹式、全ての要素を含むと言う構造だったのです。
一部分の理屈らをかき集めて全体を伺い知ろうとしても、チグハグで矛盾だらけのものにしか成らず、それに対しての疑問も抱かず、出なく成った事を、歳の性にする、出ない事を民族の性にする!体質の性にする!
良くない習慣を、あらゆる理屈を寄せ集め、正当化する!
仕舞いに、いよいよ出なくなったあかつきには、「歌など、発声などやっても何にも成らない!」などと極論を持ち出す始末である。(一理はあるが(笑))
さて、これらの個人の動向、社会現象から、やはり、人間は、進歩より恒常性を好むのだと言う事が解るのである。
多かれ少なかれ、特に、権威の座に登った人に取って、今までのそれを否定する概念など、認められる訳が無いのであろう。
「信じていた先生の理屈が、発声が、紛い物だった!」などと認めたら、敏感で弱い人は、精神的に参ってしまう事も起こりうるのである。
人は、自分の精神を守るためなら、物語だろうが、嘘であろうが、無視する事、あるいは拡大解釈であろうが、ありとあらゆる論法(笑)で自分を護ろうとするのである。
ある集団の人々は、「人類がどうしたら幸せに暮らせるだろうか?」と言う目的が、いつの間にか、「どうやったら自分らの主張を正当化出来るだろうか?」と言う目的に変わってしまうのも、やはり、とりあえず、自分らの心の平穏を重んじるからであろう。
以上、昨日偶然に、「離人症」の原因と症状、治療法に関する動画を観て、思った事である。
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恒常性VS進歩
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