例えば「声を回す」とか何とか言いますが、結局は、キアーロスクーロ・アッポッジョのバランスにおいての結果的な「現象」に過ぎない事を知るべきだと思う。
発声の必須項目がいくつか有り、個別に「これと、これと、やり、そしてこれも!良し!完成!」なんて、如何にも安易に近代合理主義的に並列分割化した考え方であると思われる。
そうでは無く、全てが主従を含め、関連性で一つに繋がっていて、逆に、項目に挙げない盲点の方が問題と成る。
演繹的に、「こう成っている筈である!」と言う思い込みこそが、盲点を形成するのである。
教わった形の背後にある、教わっていない形を、自分で発見して行く事は難しいが、節穴だらけのメソッドである以上、それをやらねば、必ずや厳しい自然の掟にやられるのである。
「声楽修行物語」と言う夢物語を信じる余り、現実の声の状況の盲点に気付けなく成る事程、おめでたい事は無い。
現実の、しかも現時点の声を冷酷に監視する目線は、別の言い方すれば、同じところに固着しない、自分を疑う、マエストロを越える目線が必要なのだと思う。
未だに見つけていない事柄が在る事を、「そんな筈は無い」と思うか、「その発見を楽しみにする」かで、進歩する体質か、何十年も同じところをグルグル回っているだけで劣化して行く体質に分かれると思う。
過去の栄光にしがみつく間に、歪みを拡大させようと、常に働いているのが声である事を知れば、美化した夢に酔っている暇など無いのであり、常に形を修正する事が任務と成るのである。
そこを追及せずに、過去の称号や栄光に甘んじる傾向に成る事は、権威主義の弊害でもある。
声は、そんなもの関係無く、崩れようと待ち構えているのである。
経歴の割に劣る歌声が、全てを物語っているのである。
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拘るところの違い
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