最近、私が良く言われる事は、「発声のみでなく、他分野にも踏み込んで、人生観にも繋げて・・」などである。
もし、私が、演繹法的思考のみで研究していたら、そのような思考の広がりは無かったと思う。
演繹法が正しく機能する為の前提条件が狂っていると言う疑いが高まった今、再構築する為に、帰納法に徹しながらも、一流歌手の言及(巷の常識とは異なる)との繋がりをも考慮しながらの試行錯誤を繰り返す中で、何がどう歯車が掛け違ったのか?と言う事が見えて来たのである。
その事により、物の考え方の中心に芽生えたものは、「権威など、人間が作り出した共同幻想であり、必ずしも真実では無い!むしろ権威とは、真実を隠す為に利用された感も否めない!」と言う事である。
それが考え方の基盤となると、あら不思議!どんどん世の中の社会現象が、線で繋がって来るのである。
発声の欺瞞に関しても、「なる程!これなら、そうなってしまうわ!」と、納得出来てしまうのである。
社会常識とか、権威の内側の思考では無く、その枠の外側に出た思考では、必然的に、同時進行的に、あらゆる分野への関連性を考えるように成るのである。
それも、必然的なのである。
逆に、そうならないと言う事は、如何に権威主義であり、演繹法的思考であるか?と言う事も言えるのでは無かろうか?
「何かの法則や、公式など、とっくの昔に、偉人やら天才が発見、発明しているので、我々は、そんな事に時間を費やすのは合理的では無く、ひたすらそれを暗記し、活用すべし!」
なる、物事の根本を考える事をキャンセルさせるように仕向ける教え!これは、ひょっとして、自分の頭で、物事を思考する人間が多くなると、不都合な事になる故の、謀略、白雉化計画の一端では無いかと思うのである。
そうすると、その前提条件となり、土台となるものが、虚構であった場合、それを暴くなどと言う人間が居なくなるのだから。
疑う事すら出来なく成るのである。
発声など、利権と程遠い分野では、尚更、そんな事、どうでも良くなるのであろう。
長年に渡り、ここまで発展しない分野も、珍しいのだが、如何に、人間が、社会が金融に支配されて来たか!と言う事に成るのである。(必然的にそことの関連性が出来るでしょ?)
間違いを恐れ、人の理論や言葉を拝借するだけでなく、自分の言葉で、勇気を持って、考えようではありませんか!!!
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物の考え方
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