人は多かれ少なかれ、自分にとって都合の良い物語を作る生き物であると思う。
それが酷く成ると、在りもしない虚構を、さも真実だと思い込むようである。
発声でもそうであるが、特に独習者は、余程客観性が無いと、「こうなっているはずだ!」と言う虚構を作り上げ、自惚れに浸るのである。(私もかつて経験した)
しかし、そんなチマチマした自惚れは、舞台などの厳しい現実に、脆くも吹き飛ばされて、砂を噛むような虚しい敗北感を味わう事に成るのである。敗北感を味わえば、まだ良いが、適当なところで満足してしまえば、最初からのモチベーションを疑ってしまう。
本当に理解し、コンスタントに体現出来れば、舞台だろうが、何処だろうが、浮き沈み少なく体現出来るのだが・・。
自惚れの状態の人がやらないこと!
それは、一流歌手と、自分の(現実には酷い)発声とを聴き比べる事であろう。
私を、自惚れから救ってくれたのも、一流歌手の素晴らしい音声である。
その音源を聴いた、すぐ後に、てめ~の酷い声を聴くのである。
何が違うのか判らないうちは、「意外と俺も良いじゃないか?」などと、思ってしまうが、これは、おめでたさんである。これはこれで幸せなのかも知れない。
問題は、耳が肥えて来て、何が違うのか具体的に判りだした時である。
一流歌手の完璧な路線から、殆ど全部の声が、ズレている事に気付くのである。
何か、基礎的な肝心な事が、欠如している事に気付くのである。
そして、発声の常識とやらに、嘘がある事、あるいは、前提条件が必要である事に気付いて来るのである。
喉を開く事に関しても、前側だけを使った発声では、永遠にその境地に至る事は出来ない!
開いたつもりに成っているだけである。
本当に良いポジションに行った時は、非常に現実的な感覚に戻されるのであり、芸術をやっている、堪能しているような、夢見心地とは正反対な感覚である。
夢見心地の方が、高尚な事やってる感が生まれるのも、落とし穴の一つであろう。
いずれにしても、この虚構と言う魔は、人の成長や気付きから遠ざけてしまう事になる。
酷な真実こそが、真に人を成長させてくれるのである。
そもそもが、本気であるのか、適当な遊びであるのか?
それが問題となるのである。
私は、声の、発声の発展無くしては、死活問題となる事もあるが、やはり、目指すところがどこにあるのか?で、夢見心地で居られるか、現実を受け入れ、肥大する矛盾に向き合うか?の違いを生み出すのだと思う。
私の自慢は、矛盾探知機能が人一倍敏感である事である。
それが、夢見心地に浸らせてくれない、と言った方が早いのかも知れない。
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物語と言う虚構
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