今まで私が、メソッド開発を目指し試みて来た様々な試みの結果、抽象度高い視野での声の構造の発見に至った訳である。
発見の為には、無駄な事は何一つ無いと思っているのだが、歌手を育成する為には、そうは言っていられないのである。
何十年も、掛かるようでは、仕事に成らないのである。
さて、何が無駄で在ったかを特定する作業に伴って、効率化を計るのだが、やはり、過去のメソッドを否定的に観なければ成らない側面があり、それこそ、過去の価値に目を向けていたのでは、話は進まないのである。
抽象度高い、新たな発見に目を向けると、過去のメソッド、特に、部分に拘ったものは、ある意味フィードバックとしての効果は有るかもしれないが、拘る事自体は、有害に働く事は、体験でも、理屈でも証明してしまっている。
あくまでも、「結果としてそうなる!」と言う、確認の為の「知識」として、利用する程度のものである。
さて、抽象度高い、声の構成の話であるが、これが出来れば単純!と言う、「これ」が、意外とメンタルブロックにより、閉ざされている事に気付かされている。
それを、部分的メソッドで、解き放てる効力があるのか?と言う疑問を抱えているが、恐らく、それは、自分で気付き、自分で解除する性質のものであると睨んでいる。
と言う事は、その壁にぶち当たった人の個人差による開きは出て来るのである。
と同時に、これに挑戦すると言う過程において、内面的な変化を余儀無くされると言う事であろうか。
シャリアピンの自伝にもあったが、シャリアピンは、久々に現れた生徒が、「自分はかなり出来るようになった!」と、語るも、彼は何も変わっていない事をすぐに見破った・・と言う記述を思い出した。
雰囲気や、服装が、全く変わっていなかった事によるものである。
本当に良くなる事が、如何に大変か!と言う認識と、効率良く良くするメソッド構築の狭間で、あれこれ思考は続くのであった。
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無駄の特定
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