発声において、肝心な認識力は、現実に自分の身体、マインド、声に、何が起きているのか?
と言う、瞬間的な認識力が勝負になります。
普段、冷静な時は、的を得た認識をしていても、いざと言う場面で、恐怖心と言う魔にやられると、それが「流される」と言う方向に行ってしまうでしょう。
そんな状況においても、趣旨貫徹するには、冷静なる現状認識力が前提条件になる事は言うまでもありません。
恐怖心に流され、冷静さを失うと、同時に自己正当化と言う機能が働いて、原因を見誤り勝ちになると思います。
さて、その魔にやられない為には、やはり形の把握と、それに付随する安定性の確保に他無いと思います。
と言う事は、優先順位は、やはり形の把握、会得、にあるでしょう。
恐怖心は、逃げを生み出し、形を壊そうとします。「発声も大切だけど音楽性はもっと大切!」なる、一見もっともらしい理屈も、実は逃げの正当化に利用されます。
安定性の無いところでは、音楽性も何も無いのですから。
周りに合わせると言う事は、周りに流されると言う事でもあるのですが、いざとなり流されモードになると言う事は、まだまだ修行が足りない、形が定着化していない事による迷いに他ならないのです!
音楽の流れとは流動的なのですが、その音楽そのものに流され、形を見失う事だってあるのです。
心身ともに安定性を確保すると言う事は、形を理解、把握する、その形に成るように訓練すると言う事だと思います。
それが、主たる目的を明らかにする事であり、主従を明確に出来る事でもあると思います。
それが出来る人が、一流になれるのでは?と感じています。