どんなにガリ勉しても、考え方の根本、主従の見極め、即ち時間軸を含んだ構造を把握せぬ事には、様々な倒錯が生じて来ると思われる。
例えば、平等!
差別はいけない!
などの概念は、取り扱い方を誤ると、物事の因果や、主従の差別化の認識力をも鈍らせ、並列化する事にも及ぶのでは無かろうか?
根本原因から目を逸らしても、同じような結果に至る!
心理的に、最も重要な真実が、自分にとって都合が悪い事、一時的に苦しめられる事!
そこを無意識化する事が、物事の因果をあやふやにして、ごまかす事にも繋がるのでは無かろうか?
知識を取り扱うにも、発声と同様に技術が必要であり、現代は、そこの教育が無い!
それが無いと、自己正当化の詭弁に用いられるのがオチであろう。
そもそも、社会的に、最も肝心なところがシークレット化されている!と言うところが、根本にあると思われる。
一番肝心な、貨幣とはどのように作られるのか?(民間銀行での借金で作られて来た)と言う、最も根本的な事柄が、かつての経済学に出てこなかったと言う事実は、発声の基礎とは何か?と言う問題に触れなかった事と同じであろう。
それが、主従を曖昧にする正体の一つであろう。
平等や自由を取り扱うには、相当な技術が必要であるにも拘わらず、主従をわきまえない人達により乱用され、主従をわきまえない事の正当化にさえされてしまっているのが現状では無かろうか?
差別化をしっかり行える技術!
それは、真実の構造を把握せぬ事にはなし得ないことであろう。