声楽学習者の初心者に最も多い発声のイメージは、「うまく響かせてやろう!」と言う動機であろう。
しかし、この動機は、声と情緒を別のものとして捉え、「気分はどうあれ、それらしく響かせられる!」と言う観点から来るものである。
情緒的にシャイな、はにかみ屋でも、声帯を上手く震わせられれば、そんな事関係無く立派な声は出る筈だ!では、どうすれば良いのか?
そんな事を常に考えている筈である。(笑)
その観点がある限り、パッサッジョ域から上の音での隙間は、まず埋める事は不可能である。
声楽発声における「冷静さ」とは、あらゆる情緒が拮抗しあって生まれるものであり、即ち、緊張が増した状態でも冷静さを保つ為には、あらゆる情緒が強く働き、釣り合う必要がある!
故に、表面的な格好ばかり気にしているような臆病では、その拮抗に持ち込めないのである。
そうする為には、トレーニングが必要である。
トレーニングとは、そのような意味があり、闇雲に、発声する訳では無いのである!
特に巷の発声法は、少し負荷が架かれば、やれ力みだ!喉声だ!などと騒ぎ立てるのであるが、その拮抗における冷静なる境地に持ち込めないからの騒ぎであろう。
特に日本人はパッサッジョ域からの認識が甘く、拮抗から逃げようとする声のオンパレードである事は、音源から理解出来るのである。
それを正当化するための理屈に騙されると、本当の仕組みが解らず仕舞いで終わるのである。
それは、まるでディベートで言い負かすような論法である。(笑)
その情緒的バランスは、普段の言動にも現れててしまう事は、当たり前の話であるが、人は、隠しきれると思っているのであろうか?
そんなもの、隠せる訳が無いのである。
一事が万事!
万事は一事!
声と情緒が関係無いなんて事、あるわけが無いのである。