独学と言うと、「権威在るマエストロの教えではない正当性の保証や根拠の無い学び」
と言われかねないのだが、本当にそのリスキーな面だけなのか?それを考察してみた。
確かに、効率は悪いだろうが、正しくない事を教わらない、させてもらえない事が、本当に無駄骨では無いのか?
独学と言うものは、何も指標の無いところから、自分の頭で探り、考察し、また探る。
独学の手探りは、上手く行ったり、はみ出たりする事で、効率的なレッスンで得る情報よりも、寄りデッドゾーンを深く理解する事と成る。
若いときにやんちゃやらかした人間の方が、良い子で従順に育った人間より、認識の幅が広いのもうなづける話である。
何故駄目なのか?身体で理解しているのである。
効率的な教えだけで、健やかに育った人間は、外れた道の体験が少ない為、無意識に、外れる自分に気付かないのである。
効率良く、正統的に教わり会得するのは王道であるが、自分の頭と時間をフルに使った独学による成功者は、圧倒的な情報量により、他の追随を許さぬ者と成るのである。
そして、その思考は、社会においても、様々な関連性を見出す事となる。
独学者の強者は、思考におけるタブーが無い事が何よりの強みであろう。何せ権威というフィルターが無いのだから。
過去の文献を引っ張り出すだけではなく、自分の頭で考える事が大切であるが、現在の学校教育は、その逆を行っているのである。
歴史上の偉大な創始者は、過去の文献など無いところに、自分の悟りにより道を説いたのである。
釈迦は、経文など教わっていないのである。
秀才とは、過去の偉業に学び、クリエーターは、自らの頭で新たな価値を創造するのであろう。
ゼロからの思考の、ゼロこそが、キーポイントと成るのだが、それが、常識によりゼロに成れないのである。
高エネルギーの発声に関して、その構造に関して前記した事が関係している。
自意識を超えた声の構造を体現するには、極端に偏った声の集合体であると言う発見は、常識的感覚を逸脱するものであり、自意識を越えなければ成らない。
そこにも、「ゼロになる事」が関係しており、バカに成る事とも関係している。
恐れない!
そのマインドは、まさにバカのマインドなのである。
我々は、馬鹿に成るために、ゼロになる為に修業するのかも知れない。
勉強させて頂いてます!などとも良く言うのだが、それが、高尚な感覚を伴う、インテリ心を(笑)満たすようなものであれば、もしかしたら正反対の方向に言っているのかも知れない。
最近の発声体感から思うところである。