結局のところ、巷の発声の方法論は、聴いた声の印象をそのまま方法論として盛り込んでおり、それが、履き違えの根本原因であったと私は思うのである。
歪んだ声は、実は力が偏った、エネルギー不足の声であり、整った声は、エネルギーが隙間無く充満しているので、非常に過酷である。
喉を広げようとすれば、逆に声帯に負担が増えて、咳払いするように閉じると、あら不思議!息の流れが出来て、声帯への負担が軽減する!
そのように、キューゾを駆使して歌うと、歌っている本人は、声が詰まって、苦しくて「こんな声大丈夫か?」と疑ってしまうのであるが、それとは裏腹に、穏やかな表情で、整った音声と成っており、これは、にわかには信じがたい現象なのである。
如何に、錯覚に騙されていたか!と言うことであろう。
これとは真逆を行っている巷の発声での常識では、考えられない事であるので、否定したく成る気持ちは分かるのだが、こうなれば、否定しようにも、揚げ足取り的に批判するしか無くなって来るのでは無かろうか。
私の理論や音声を全否定する事は、もう、不可能に近いのではないのか?
そう言えば、巷の指導自体も、現象としての綻びを修正しようとする「揚げ足取り的」なものであると言われても仕方のない事である。
私の理論や声は、全部、実験による実体験に基づいたものであると言う、強みがある。
似非理論などの「こうあるべき!」「こうである筈!」などの観点とは一線を画すのである。
本日は、咳払いするところを使わないと、どれだけ喉で止まってしまうのか?と言う事を、後に動画で説明しようと思う。
お楽しみに。