昨日の続きでありますが、と言う事は、その、巷の発声を器用にこなした人達が、高学歴者と成りやすいシステムと言う事でしょう。
逆に言うと、特に国内で高学歴者程、黄金期由来の発声は望めないと言う事にも成ってしまいます。
巷の発声と、黄金期由来の発声の違いを考察してみると、あらゆるところに、その影響は波及し、人生観、人生そのものにも、様々な影響を及ぼすのです。
発声、声って、人のマインドに直接的に影響を及ぼすものなので、ある意味、恐ろしい事だと思います。
黄金期由来の発声は、ギリギリの所までキューゾします。
それが何を意味するのかお分かりでしょうか?
それは、ギリギリまで、冷静に声を処理、コントロールすると言う事なのです。
キューゾすれば、それだけ、ピッチの高さにマッチした声の形になり、頭が冷静に成るのです。
勿論、最初は、キューゾ仕切れませんから、長年の訓練が必要です。
一方、モダンメソッド(国内では、その更なる劣化形)では、キューゾによるコントロールは、難しく、完璧にコントロール出来るまでは長年掛かるので、キューゾは程々に、後は息に丸投げするスタイルだと思ってます。
ですから、早々と、口を大きく開き、息を流出させる方向に仕向けます。
これは、インスタントな処理法だと思っています。
そして、それは、当然の事ながら、加齢と共に息が太くなり、声が大きく揺れ、息が続かなく成るのです。
若いうちは、小さく歌うと、柔らかなニュアンスで歌えるので、それで良いと思ってしまう事も多いでしょう。
と言う事は、本当に黄金期由来の発声が掴みたければ、音大に行く事はマイナスと成ってしまうと言う事に成るのです。
それらの組織内で、黄金期由来の優れたものを認めるだけの度量は無いのでしょうか?
完璧に黄金期由来で歌えなければ、その未完の部分をクローズアップされ、異端者扱いされるのがオチでは無いでしょうか?
未完の部分を取り出し、すぐに「発声の根本が間違っている」と言う捉え方をする人が多いのは何故でしょう?(笑)
そもそも、その方法論が分からないのですから、本当に発声を追い求める人が、全世界をもってしても路頭に迷うのは当然なのです。
私は、そのレシピを完成させようとする一人ですが、如何に壮大な計画かおわかりかと思います。(笑)
息への丸投げ度が高まる程、偶然に頼る結果となる事は、筋道たてて考えれば分かると思います。
アッポッジョとは冷静なマインドによる産物なのです。
そして、それによる適正化された息の分量は、結果に過ぎない事なのです。
最後に、アッポッジョ発声が、キアーロスクーロ(明暗法)を含む技法であるなら、巷の発声は、明暗法擬き+媚び、恐れ、驚き による情緒構成であると思われます。
お分かりでしょうか?(笑)