これは、私の勝手な憶測であるが、初期ベルカントの時代は、多分にキリスト教の影響力が強い中、人の歌声も「神の僕」としての存在と言う観点から構築されて来た物では無かろうか?
声の許容範囲が、そこに限定されていた時代とも言えるのでは無かろうか?
だから、そこには、アッポッジョなる「自立した人間」としての声には否定的であったのでは?と思う。
一方、アッポッジョなる概念が入り込んだ、第二期黄金期において、その歌声の本質は、「神に従う尊さ」「神を讃える尊さ」よりも、「個人の調和、安定性」「個人の魅力」「性的魅力」などが入り込んで、どちらかと言うと、東洋哲学的な色合いが強いと思う。
私は、アッポッジョとは、調和の哲学であり、ヨガなどにも通ずるものであると感じている。
テノールのラウリ・ヴォルピが、ヨガを取り入れたと言う事は、知っているが、そのような動きがあるのも必然的では無かろうか?
初期ベルカント的価値観から言うと、アッポッジョ発声は、それこそ「悪しきもの」と成ってしまうのでは無かろうか?
この根本的な問題は、とても重要でデリケートな問題であると思う。