歌唱のモダン化は、オールドスィンギングにおける声の密度を軽減化させると言う事である。
声の闘争の力を軽減し、密度を薄くし、その分、息の分量が増す。
そして、そのモダン化された声には、「自由で楽で、スタイリッシュ」という印象がある。
一方、黄金期におけるオールドスィンギングの特徴は、モダン歌唱の立場から観ると、「鈍くさい」「不格好」「濃い」など、余り良い印象は起きないのかも知れない。
だから、オールド歌唱は駄目なのか?
おっとどっこい!オールド歌唱には、モダン歌唱の欠点を補う要素がある!
それは、声の安定性である。
不格好で、シンプルで、燃費悪いけど、丈夫さに長けているのである。
さて、この、モダン歌唱とオールド歌唱!
もっと、突っ込むと、モダン歌唱は、一見自由だが、長い目で観ると、加齢に弱く、人体と言う楽器が、その自由さに対応出来なくなり、寄り不自由と成ってしまうのである。
要するに、スタイリッシュであるが、元々の構造が脆弱であるので、ある意味、寿命が短く成ってしまうのである。
まるで、現代の電気製品のようである。
と言う事は、モダン歌唱で不安定に成ると言う事は、免れようのない現象であり、偏りを生み出し易いとも言える。
モダン歌唱は、涼しげな、すかした美学を生み出すが、その限界をあえて述べると、涼しげな格好を気にしているうちは、安定性に長けた構造に持って行き辛いメンタルでもあると言う事である。
モダン歌唱的には不格好で暑苦しいオールド歌唱の哲学こそ、安定性を回復させる唯一のツールなのでは無かろうかと感じている今日この頃である。
オールド歌唱は、すかした気持ちでは有り得ない声であり、本来、それが人々の心を動かす、奮い立たすと考えれば、声の曲がり角に来た年齢こそ、オールド歌唱的な安定性に優れた歌唱に目を向けてみるのも良いでは無かろうか?
社会的にも、自由化の行き着く先は、格差社会と言う偏った構造と成ってしまう事は最早明白な事実である。
それにより、社会そのものの不安定化に、さらには人々の心の不安定化にも繋がるのであり、モダン歌唱における声の現象と無関係とは思えないのである。
動画のオールド歌唱の声を、どう感じるか?で、その人のモダン洗脳度(笑)が判ると思う。
最初はキツいけど、慣れたら、モダン歌唱が、とても詰まらなく成ってくる!
「この味をしめたら他が食べられなく成る!」と言う現象と同じであり、中毒性も高いと思われる。(笑)
私の門下生は、皆さん、そう成ってしまうようである。(笑)
ごめんねごめんね~!(笑)