声楽発声の訓練には、演繹法的考察と、帰納法的考察の両方が必要だと思っている。
個々の声の発展に関しては、様々なパターンが在り、その現象により、「どうしたら良いのか?」と言う事を考える時に、その手掛かりは、その都度の実験的な試みが必要と成る。
規格化、統一化されたメソッドでは、必ず、不適合な場合が出て来るのである。
大ざっぱな論理に基づくものの、細かな作業では、推論、憶測だらけである。
そして、その時点での個人に適合した方法論が、段々と明確と成ってくる。
これは、帰納法的作業である。
さて、大ざっぱなる声の本質とは、「呼気と吸気のせめぎ合い」と言うものである。
この事に関しては、揺るぎなく、そこは、演繹法としての素材と成るのであるが、今までは、その本質的な姿すら、曖昧にされてきており、やれ響きだの、喉を広げるだの、前に出せだの、結果を原因と履き違えた、堂々巡り的な、右往左往的な結末を迎える愚考を行って来たと言う事である。
ある意味、本末転倒なる現象を追う、あるいは、バラバラに散らばった概念の破片を拡大解釈して、歪みを生み出して来た歴史だったのでは無かろうか。
演繹法の、最も拙いパターンなのである。
そこには、「何故、その公式が成り立ったのか?」と言う、根本を考える思考力は無い!
まさか、偉い先生の言われる事が間違いである筈は無い!と言う、演繹法的権威主義による思い込みによる、負の産物なのである。
「呼気と吸気のせめぎ合い」と言う、大前提が明らかに成って、私の体感、生徒さんの体感、そして、その結果である歌声に、その大前提を基盤とした思考の歯車が、正常に噛み合って来た事が表れて来たと自負しているのである。
その思考の基盤となったものは、「帰納法的作業」、つまりは、実験の繰り返しによる仮説、推論である。
演繹法の前提が狂っていたのでは、話に成らないのである。
確証が不充分でも、確率的な可能性として考えると言う事こそ、「自分の頭で考える」と言う事では無いだろうか?
その事が、教育によって、如何に無視されて来たか?と言う結末が、「自分の頭で考えられない」「従順なる奴隷」と言う、人間を育成して来た事では無かろうか?
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帰納法と演繹法
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